心理臨床オフィスポーポのブログ

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魂を打ち震わせるような表現―映画『寛解の連続』について

これがあったから死の淵からなんとか引き返してこられたと思うような、魂を打ち震わせるような表現に出くわすことがある。これはもちろん万人に共通するものではなく、いつ何と出会うか、それによって自分に何が起こるかは無数の組み合わせがあり、誰にも予想もできない(だからこそそれは、心ではなく魂を揺さぶる)ようなものだ。


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映画を見に行った。光永惇監督の『寛解の連続』。

http://kankai-movie.com/ 

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 この作品は、ラッパー・小林勝行が2011年にファーストアルバム『神戸薔薇尻』をリリースした後、躁うつ病双極性障害)による入院生活を経て、2017年にセカンドアルバム『かっつん』にて復活する、その軌跡を記録したものである。映像のメインとなっているのは、セカンドアルバムの制作風景、特にリリックを研ぎ澄ます小林勝行の姿であるが、密着取材らしく、仕事、両親、信仰、地元の先輩など、彼の生活の様々な“現場”がそこに織り込まれていく。見終えてこれは、コミュニティを求めつつもどのコミュニティにも繋ぎ止められない、さまよえる魂の旅を描いた作品であると思った。 


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 個人的なことを記せば、私はファーストアルバムが出る以前、神戸薔薇尻と名乗っていた頃に彼の作品と出会った。当時はとにかくヒップホップが好きだったから、情報収集する中で知ったのだと思う。まだアルバムは出ておらず、さまざまなコンピレーションアルバムに収録されていった作品を夢中になって追いかけた。最初に聞いたのは、SEEDA & DJ ISSO『CONCRETE GREEN』に入っていた「絶対いける」か、DJ NAPEY『FIRST CALL』に入っていた「蓮の花」かどちらかだったか。もしくは、韻踏合組合が関わっているDJマッカーサー『Vol.2』の「絶対いける」だったような気もする。(「絶対いける」はこのバージョンが秀逸。)

 どの作品も、國分功一郎流に言うならば「暇」でもあり「退屈」でもあるような地方の青年の鬱屈と、その解消の試みとしての“悪事”、それでも光指す方へ伸びたいという思いが巧みに韻を踏みつつ描かれており、鬱屈の源である地元を象徴する方言もうまく昇華されていて、とにかく何度も、自分をぶつけるようにして聴いた。“悪事”こそ働いていなかったものの、何をやってもうまく行かない気がしてどんづまっていた当時の私の心にとてもマッチしたのだ。つまり私の魂は、まだ見ぬ同志に出会うことができてかろうじて息を吹き返したということになる。


 そしてこの映画を見ることによって、私の魂は再び、揺さぶられることとなった。


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 「退屈」が叙情的な美しさすら持つのだということは、神戸薔薇尻の「HERE IS HAPPINESS」という曲によって思い知らされた。大津美子の「ここに幸あり」をサンプリングしてラップされるのは、世界最長を誇る明石海峡大橋のたもとに立ち尽くしながら語り起こされる、神戸西端にいる若者の日常に関する述懐である。


  一緒 中退ハイブリーチ あいつんち ぷよぷよイージー 14インチが

  映す 不景気鉄筋屋クビ おばちゃんに決心て何? あくび

  お前のパン屋のバイト休み ちょい恥ずい 大蔵海岸裸足


フックはこう。


  一直線伸びる明石大橋 

  二本足 頑丈 棒立ち

  ホンマにあん時と同じ

  ばりでっかいし世界一

  一望 淡路景色広い

  おらん後ろにおい海の匂い

  暗なったら光り始める 腕を組む HERE IS HAPPINESS


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 あの時これらの音源と出会えていなかったらどうなっていただろうかと思う。それは、本映画の中で、「あの時引っ越していなかったら」と想像する小林勝行の姿のようである。彼が小2で伊川谷に越すことになったのは、震災によって自宅が崩壊したためであった。「20年経って、神戸今住んどう人で震災経験したん40%しかおらへん」と彼は言う。やはりこれは、自分を繋ぎ止められるコミュニティを求めてさまよう魂の旅路なのだと思う。


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 各種コンピを経て満を持してファーストアルバム『神戸薔薇尻』をリリースするが、その後、病を得て活動がストップする。こうして自分の意志とは別のなにものかによって、彼の魂は常に浮遊を余儀なくされる。


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 映画全体を通して、”小林勝行の語り、わかりにくい”ということに気がついた。なにがわかりにくいかというと、問いに対して答えているうちにいろんな話がつながっていって、何の話をしていたのかわからなくなるのだ。問いという石が投げられると心と世界に波紋ができるが、その波紋を全てすくい取って言葉にしようとするのである。それは論理的ではないが故に、日常的な会話の中ではわかりにくいものとして立ち現れてしまうけれど、とても豊かな詩的な語りだ。自分というものそのものが融解して、万物に染み渡っていくような、そんな語り。盲学校に関するエピソードは、それを象徴するものだと思う。そしてだからこそ彼には、ラップが必要なのではないかとも思った。

 これについて具体的には、少し前に出た『ヒップホップ・モンゴリア』(島村一平著)を想起した。この本には、ラッパーがシャーマンになること、モンゴルにおけるラッパーとシャーマンとの近接性について書かれていた。また、遊牧民族として口承によって文化を伝承していくモンゴルの人々にとっては、韻を踏むというのは確実に体に刻み込んで記憶するための実践的な知恵でもある。これは、韻=身体性を感じさせる縛りでもあり、リズムによる高揚感を呼び起こすものでもあって、それによって自分というものを解体し、この世ならぬものと関わりを持つことを可能にするのだという指摘であった。またここでは、自分は解体されながらも、韻踏みのオリジナリティによってあらたな“私”として再生される。

 リリックを書きながら泣き、車を運転しつつ念仏を唱える小林勝行の姿は、ある意味シャーマン的な様相を呈する。ただし彼は、シャーマンのように誰かのためにとか、何かと何かを仲介するために祈るのではない。自分のために祈るのだ。それは、向こう側にあるものと容易につながってしまえる力を持った人が、なんとかこちら側にとどまろうとする、その錨となるようなものとしての祈りに見えた。彼が迷いながらも最終的にはその作品の中ではっきりと信仰について告白をしたのも、きっとそのことに関わるのだろうと思う。確かなコミュニティなき者にとって(それはきっと今や多くの人に共通するあり方だ)、ここに確かに自分がいると実感するのはとても大変なことなんだと、あらためて身にしみた。


 また、父親について語る場面と、アルバムの共同制作者が(親切だが聞きようによっては説教とも取れる話を)語りかけている場面も印象的である。この映画を見る者にとっては、これらの人間臭い場面が癒やしというか、自分とこのラッパーとの接続点となることだと思う。北岡先輩が「知らん」とつっぱねるのもよかった。彼も我々も、道徳的に正しいことを真っ先に目指したいわけではないのだ。それ以前に、ただ生きたい。


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 かくして現在の日本を生きる私にとっては、『ノマドランド』よりも一層、迫りくるリアリティが湧き上がる作品であった。「Here is Happiness」において、希望と絶望の交差点として眺められた明石海峡大橋のその向こう側、淡路島にこれから起こるであろうことにも思いを馳せた。


可能であればもう一度見に行きたいと思う。

ハウス加賀谷さんの推薦コメントがすばらしいので、ぜひ公式サイトからご覧ください。 (リンクしているページをスクロールすると出てきます。)

 

 

参考文献:映画『寛解の連続』パンフレット

     島村一平『ヒップホップ・モンゴリア 韻がつむぐ人類学』青土社

     都築響一『ヒップホップの詩人たち』新潮社