心理臨床オフィスポーポのブログ

大阪・上本町のカウンセリング専門機関です。

それは幻ではない――西見奈子『フロイトの灯 現代精神分析入門』

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 精神分析家によるフロイト理論の解説書。優しく丁寧だが足腰の強さを感じさせる語り口で、読むうちに段々と地響きのような蝉の声のような、姿なき者の声のようなものがズーンと響き、次第に大きくなってくる気がした。気のせいかと思ったが、それは気のせいではないことが終盤にさしかかるにつれ分かってくる。


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 本書では、フロイトのヒステリー理論について、それがトラウマ(実際に生じた外傷体験)によるものであるとした初期理論(「誘惑理論」)とその放棄について語る。ヒステリー症状は女性が外傷体験を負ったから生じるのではなく、外傷体験を負ったことにして症状を出し心身を守ることを無意識が選んだのではないか、という理論的転換である。

 その上で、誘惑理論を放棄したからこそ作り上げることのできたエディプスコンプレックスという考え方について論じられていくが、そこに一本通っているのは人間にとって性愛とは何か、という視点である。


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 精神分析の性愛理論はあるところから急に受け付けなくなるところが私にはあって、エディプスコンプレックスについても、子による母親への愛と父親への憎悪がそれぞれに対するアンビバレントな思いへと変わっていき、そうして父や母を人間として認めることで子の人格に陰影や奥行きが生まれて、一人の大人になる道が開けていくのだ――と比喩や象徴的なものとして説明されれば納得がいくのに、ペニス羨望や去勢不安、などと言われると、とたんに私の心は理解を拒んでしまう。「ペニスほしいと思ったことないなー??」などと思ってしまうのである。ではクラインはどうかというと、「ヴァギナについての無意識的知覚」はまだなんとなくわかるが、「母親のお腹には父親のペニスといういいものがつまっているという空想」となると、やっぱりよくわからなくなる。どうしてそんなことを考えたんだろう?

 

 フロイトおよび精神分析の性愛へのこだわりについて、人間存在は生物学的なものに依拠して動かされているという発想として理解すればよいのだと、たしか藤山直樹『集中講義・精神分析』には書かれていて、これもやはり頭ではわかったけれど、いわゆる腹落ちはできぬまま今に至っていたように思う。


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 今回読んだ『フロイトの灯』は、「おわりに」にあるように「性は愛と暴力の間にある」という認識に貫かれている。また、“子どもと大人の違いは何か”“子どもが大人になるとはどういうことか”ということも暗黙の問いとして追われていたように思う。本書では、フロイトやクラインや精神分析関係者の書簡などを丁寧に読み解くことで、フロイトやクラインが「ペニス」「ヴァギナ」という用語を手放さなかったのは、子どもも女性も愛という名のもとに身体と心を実際に傷つけられてきたからであり、二人ともそれをよく知っていたからであるということを明かしてみせた。


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 私が特にインパクトを受けたのは、フェレンツィの「大人と子供のことばの混乱」という論文のことである。(私は不勉強にしてこの論文のことを知らなかったのであるが、森茂起が訳して紀要に載せたものがネット上からすぐ読める。)ここでは、子どもが求めるのはやさしさの水準であり、性的に成熟した大人が求めるのは情熱の水準であり、これを大人が取り違えることで性暴力は起こるのだとフェレンツィは述べている。

 

 これは個別の事象について考えさせられるだけではなく、社会制度設計についても考えさせられるような話ではないかと私は思う。例えばアニメやゲームなどのゾーニングの問題などを読みながら想起した。つまり、心の作業に関わる者は、心の問題だけにせず社会に開かれる視点を持ちながら、社会を捉え作っていくのは人間の心であるという事実にも根ざしていなくてはならない。社会を変えるのは行動だが、行動を起こしそれを修正し動かしていくのは心なのである。


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 ところで、では、大人とはなんだろうか。子どもはどうやって大人になるのだろうか。この本では、「自分が子どもであることを受け入れること」だと結論づける。これには、父と母というカップルの結びつきを認めることだけではなく、“自分がいかにケアされてきたか”を知ることが関わるのだという。(“いかにケアされてきたか”を知るためには、子どもとしてケアを十分にされる体験が必要であることは言うまでもない。)


 この文章では唐突に出てきたように見える“ケア”という視点であるが、本書の中ではあっと驚くような仕掛けで導入される。ここは是非、本文にあたってもらいたいところである。


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 本書を読んで、「ペニス羨望」がわからないことに私自身が傷ついてきたのかなと思った。学術の世界にいると、わからないと言えば無力なものとみなされることが多々あり、わからないと表明することへの忌避感が大きくなることがあるように思う。わからないのは馬鹿ではない。問題は、“わからないのは馬鹿”と思わせる構造の方にある。わからないことをわからないと言いながら考え続けることを認める力がこの本にはあるように思えて、そういった意味でも読んでよかったと思える本であった。

 


<参考文献(おすすめ読み比べ書籍)>

www.kodansha.co.jp

www.iwasaki-ap.co.jp

www.iwasaki-ap.co.jp

www.nhk-book.co.jp

読書メモ:ウィニコット(1965/2022)『成熟過程と促進的環境』(大矢泰士訳)岩崎学術出版社

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 対象関係論のメラニー・クラインの後継者でありながら、それにとどまらず自らの理論を展開させていったウィニコットの論文集。「偽りの自己・本当の自己」「一人でいられる能力」などウィニコットの代表的理論を知ることができ、子どもの心理臨床を学ぶうえでは『遊ぶことと現実』等とともに必読であると思われます。


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 クラインとともに乳幼児期の心的発達の重要性を説いたものの、クラインほどには内界のファンタジーに依らず、タイトルにあるように「促進的環境」を重視したウィニコット。養育者に依存しながら漸進的に心理的自立が進むとウィニコットは考えますが、本書の白眉は以下の点にあると読みました。


 イド衝動が有意義になるのは、それが自我生活の中に包容(コンテイン)されるときだけである、という点については一般的に同意を得られると思う。イド衝動は、弱い自我を混乱させ、強い自我を強化する。イド-関係は、自我-関係性の枠組みのなかでおこるとき、自我を強化する、と言える。もしこのことを受け容れるなら、一人でいられる能力の重要性も理解されるはずである。乳幼児が彼自身のパーソナルな生活を発見できるのは(誰かがいるところで)一人でいるときだけである。これに代わる病理的な選択肢は、外的刺激への反応をもとに築かれる偽りの生活である。(「一人でいられる能力」p.32)
 いまや、応えてくれる誰かがいること、誰かがそこにいること、そこにいるけれども何かを要求してくるわけではないこと、が重要である理由を分かっていただけるものと思う、衝動があらわれ、イド体験は実り豊かなものになることができて、一緒にいる人の、つまり母親の部分または全体が、そこでの対象となることができる。乳幼児がリアルに感じられる体験をもつことができるのは、こうした状況においてだけである。(「一人でいられる能力」p.34)

 「イド」はひとまず本能的衝動と読み替えるとわかりやすいと思います。子どもがリビングの床で遊んでいて、養育者がその後ろにあるソファに座ってなんとなく子どもを気にかけながらスマホを見ている、または、子どもがリビングで遊んでいるのをなんとなく気にしながら養育者がキッチンでご飯を作る――こういった一人のような二人のような場を体験することで、子どもは養育者がそこにいなくても大丈夫になる。そういった話です。乳児期の、とにかくお世話をしないと生命の維持ができないだろうと感じられる時期を抜けたら、べったり子どもと同じ遊びを共有しなくても、ゆるやかに空間を共有すればそれでよいということでもあります。


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 この本は装丁もかっこいいですね。昔の、牛島訳の白✕青装丁も落ち着いていて好きでしたが、大矢訳のこの装丁は、洋書由来の雰囲気がより強くあって読書モチベがあがります。


(注)牛島定信訳バージョンは1977年に同じく岩崎学術出版社より『情緒発達の精神分析理論』のタイトルで出版。全体を訳し直すとともに、2本の論文(原書にはあった「紐:コミュニケーションの技巧として」「児童精神医学のための養成訓練」)を訳し加えたのがこの大矢訳『成熟過程と促進的環境』。

魔女、人間になる――映画『ハムネット』(ネタバレあり)

映画『ハムネット』を見ました。

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イギリスの田舎(ストラトフォード)に住む農家の娘がジェントリ階級の息子と結婚し、子どもが生まれる。夫は食い扶持を得るためにロンドンへ。残された母と長女、双子の次女・長男は父の帰りを楽しみに、草花に親しみながら暮らすのだが、一家を悲劇が襲う。子の一人が亡くなってしまうのだ。この悲劇がその後、家族に取らせた手段とはなにか。それが劇作家・シェイクスピアの作品「ハムレット」誕生につながる——。

 主演女優のジェシー・バックリーがアカデミー賞を獲得したこともあり注目される本作ですが、家族のすれ違い・エディプス的葛藤と創造性の関係・母との分離・女性同士の連帯・演じることによる喪の作業など様々なテーマが重層的に含まれる物語でした。

 

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 中でも私が面白いなあと思ったのは、ジェシー・バックリー演ずるアグネス。鷹を操ったり薬草を得たり、村では”魔女の娘”と噂される存在です。アグネスの母も魔女と呼ばれており、おそらく出産にまつわる何かで命を失っています。アグネスは母のように魔女として振る舞い、母の言葉を復唱し、母に同一化することで母を失ったという事実の受け入れを遅らせているようなところがあります。

 ところで魔女は、超自然的な力で人に影響を及ぼす存在とされています。薬草などを用いた民間療法の使い手として、キリスト教的または科学的な価値観に反するものとして異端視され、”魔女狩り”と称して狩られる対象となったこともよく知られています。日本では、『魔女の宅急便』『西の魔女が死んだ』などのように、(女性の)思春期的心性を象徴するものとして捉えられることも多いものです。極めて乱暴にまとめれば、生と死、大人と子どもなど橋渡しして、その間にある断絶を埋めてしまう、欠けるところを補うというのが基本的なイメージです。つまり、この世の完全性や無限性を、論理性や理性でないところから支えるために、畏怖の念が忌避へとつながったのだと考えられます。


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 『ハムネット』のアグネスは、いつも森の中にいて動物に近い存在として描かれています。直観に優れていて、人の親指の付け根を見てその人の運命を感ずることができます。長女の出産も一人森の中に行き、洞穴で出産するのです。しかし、次の出産は川の氾濫のため夫の母から森へ行くことは禁じられ、夫が生まれた部屋での屋内出産を余儀なくされます。生まれたのは双子、長くお腹にいた次女の方は仮死状態で生まれますが、アグネスの懸命の介抱によって息をし、命を返されます。虚弱な次女の健康に気を配りながらアグネスは子育てをするのですが、ペストにかかった次女の病を引き取って亡くなったのは双子の兄の方でした。アグネスは持てるだけの知識を使いますが、薬草や塩といったものは、感染症の前にはあまりにも無力でした。

 

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 この間、夫であるウィリアムはロンドンとストラトフォードを行ったり来たりですが、革手袋を作るスキルを足がかりにロンドンで劇団の仕事に関わります。双子の出産の際にも、長男が死ぬ時にも、夫は不在でした。出産間近のタイミングでウィリアムをロンドンに送り出したのはアグネスでしたが、それは夫の親指の付け根に成功の相が出ていたからであり、むしろアグネスが積極的に送り出したようなところがあります。生命力に溢れるアグネスは、薬草とおまじない—二つとも母から受け継いだもの—によってなんでも乗り切れるし乗り切ってみせると誓うのです。自分が魔力を全力で注げば死をも覆せる、というのは母としての愛情でもあり、“魔女”としての傲慢さでもあり、魔女であらねばという強がりでもあるでしょう。

 息子の死後、アグネスが「あなたはいなかった」と夫を強烈に責めるのは、事実の指摘であり息子の死の否認でもありますが、傲慢であった自分を引き受けられないがための投影であり、アイデンティティの大きな揺らぎであるようにも思えます。また、人間の孤独や寂しさや罪悪感といったネガティブだが必要な感情の芽生えというようにも見えます。


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 怒り責めるアグネスに対するウィリアムのアンサーは、劇を作り上演することでした。「ハムレット」という舞台がロンドンで上演されることを知りアグネスは見に行くのです。アグネスは初め、息子の死を切り売りするように思えて声を上げて抗議しますが、死の世界にいる父王を自ら演じるウィリアムを見て、息子が大きくなったようであるハムレットを見て、死者には死者の世界があること、夫もまた息子の死に傷つき、劇にすること・演じることを持ってそれを受け入れようとしていることを知り、すべてを許します。母を亡くしているが母のように魔女になることで母の死を否認し続けたアグネスにとっては、ようやく母を手放せたということでもあるでしょう。


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 こうしてアグネスは、自分の魔力が万能ではないこと、自分がこの世に留まる限り、力の届かないあの世というものがあること、それは悲しいことであるが悲しみを抱えてでも生きていくしかないこと、そのためには起きた出来事を物語にしてその理路を生み出すのが有効であること、を知ります。「ハムレット」の上演を見ることでこのプロセスは完結しますが、息子が亡くなることがその始まりではなく、屋内で出産することから少しずつ、動物ではなく人間としての成分が増えてきている様子が描かれています。何と言ってもアグネスは、長男ハムネットが亡くなることを予知できなかったのですから。


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 つまり『ハムネット』は一人の魔女が魔力を失い、人間になるプロセスを描いた作品であり、それは何かを失うという意味では悲しいことではありますが、家族や周囲の人とつながるための感情や理性という新しい力を得たという意味では、希望を感じさせることでもあるように思います。


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 シェイクスピアを上演することで対象喪失を癒すというのは、映画『カーテンコールの灯』を思い出させるところがあります。時代設定や映画としての仕掛けはずいぶん違いますが、演じることによる心の打撃の回復という意味では、どちらも大切な作品であると思いました。

 

誰にとっても人生は突然――映画『カーテンコールの灯(あかり)』

  現在上映中の映画『カーテンコールの灯』は、打撃を受けた人生がどのように再生していくのかを丁寧に描いた作品です。

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 建設作業員として働いている男性・ダンが主人公。彼は作業中に激昂してしまい、それをたまたま見かけた女性に声をかけられ、地域の小さな劇団に誘われます。一方その娘も、高校で同級生に暴力的な態度を取ったということで事情を聞かれています。ダンの妻は男性や娘を宥めるのに必死ですが、家族の結びつきは危うくなる一方だし、どうもこの家族は何らかの事件にあって、証言する立場にあるようでもあり…。

 

 激昂したことがバレて停職処分になり行き場をなくしたダンは、少しずつ劇団に参加するようになるのですが、劇団へのコミットが進むにつれて、ダンとその家族には大きな打撃を受けるような出来事があり、家族みんながその出来事に支配されたような人生を送っていることがわかってきます。そうした中で、劇団は『ロミオとジュリエット』の上演に向けて稽古を進めていくのですが、それがダンとその家族を包み、傷つきを回復させる場として機能していくことになっていく――というお話です。

 

 このように書くと、お涙頂戴の感動話、説教臭い道徳話のように聞こえるかもしれませんが、ことはそう簡単ではなく(そう単純なものをこのブログで紹介するわけもなく)、落涙しつつもただスッキリするだけでは終わらないあれこれを含んだ作品でした。以下、印象に残った点を記述します。

 

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 近年、心理療法や対人援助の分野でよく言及される概念に「セルフコンパッション」というものがあります。「セルフ」は「自身」、「コンパッション」は「思いやり」「慈しみ」という意味で、合わせて「自分への思いやり」というようなことになります。社会に適応して生きていこうとすると、自分のことを置き去りにするようなやり方が取られることが多く、それが多くの人の心を消耗させたり、尊厳を失わせることになるというので、自分を大事にするあり方を育むことが心理療法の目標になることがあります。これはどんな人にも起こりうるのですが、文化伝統的に、男性は自分の感情を表現することが好ましくない(=“男らしくない”)と忌避されることが多く、感情の取り扱い方法をつかめないまま、怒りや衝動に突き動かされる瞬間が来ることがあると言われています。本作品のダンもまさにそのような男性で、演劇に携わることが、自分の感情を掴み、それを対象化する方法として機能していくことになります。

 

 自分の気持ちを表明することに慣れていない人が気持ちを表明できるためには、安全だと感じられる場が必要です。いつも無口なお父さん、で通っている人が家族の中で急に自己表現をするのはハードルが高いし、職場では職場で与えられた役割があるので、そこからあまりに外れた言動はリスキーです。そこで、家族でも職場でもなく、安全で同質性がある程度担保されているようなコミュニティ――最近はサードプレイスと呼ばれるような場所――が大事になってきます。ダンにとってはそれが劇団でした。ダンには、人が聞けば「なんと気の毒に」と言わずにはおれない出来事が降り掛かっています。「気の毒に」という言葉は思いやってのものかもしれませんが、かけられ続ければ「気の毒」の檻に閉じ込められてしまいます。映画中で、ダンが「ここ(劇団)では自分が特別視されない」と激白する場面があるのですが、 「気の毒な人」でなくいられることがどれだけダンの救いになっていたか、と思わされる場面でした。

 

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 そして、この作品がとてもうまいなあと思うのは、主人公の男性に起きる出来事と娘に起きる出来事、その妻に起きる出来事がパラパラと置かれていてその結びつきが最初はわからないように作られていること。なにやら不穏なことが次々に起こっているようだけれども、それが何であるのかが、話が進むうちに少しずつ見えてくるように作られていることです。

 

 考えてみれば、誰にとっても出来事というのは突然断片としてやってくるもので、全体像やその意味がわかるのはあとになってから――最後までわからないこともあるのですが――、そもそも、この世に産み落とされるということが突然のことだし、すでにまわりのみんなは先に人生を始めていて、その大きな流れの中に自分が参入していかないといけないのです。(なんという心細さでしょう!)そんな中でいろんなものをつなぎ合わせて、人生というものに地面があり道があり意味があるように思い込んでやってきたのに、そんなものなどなんの意味もないと、ぶっ飛ばされるされるような出来事が起こったとしたら。おそらく多くの人の心は、自分というものがつぶれないようにそれを心の外に置こうとするでしょう。ダンが自分の心の取り扱いが難しく、怒りに支配されてしまうのも、心を守るために、出来事を自分の人生から排除しようとするからですが、それが家族との関係や仕事を、そしてそれらを含んだ“生きる”ということをどんどん難しくしてしまいます。

 

 ここで、演劇・演じることがまたもや大きな役割を果たします。劇団が上演しようとしているのはシェークスピアの『ロミオとジュリエット』なのですが、これはダンと家族に起こった困難な出来事を再現するようなところがあります。出来事を排除したいダンからすれば、これを演じるというのはとても苦しいことです。ロミオを演じることになったダンは、『ロミオとジュリエット』という既存のストーリーにどうやったら自分を入れ込めるのか、結末を変えて救いのある話にしたらよいのでは?などあれこれ逃げ道を考えますが、娘の導きもあって、見事に『ロミオとジュリエット』のように生きるものの心情を、自分のものにすることに成功します。

 

 この最後の成果については、演じるにあたって、配役や感情表現の方法など、劇団全体で試行錯誤、紆余曲折しながらたどり着いたということがとても大事だったように思います。メソッド演技のように自分の人格を変え役と一体化させるような方法でもなく、肉体的・精神的に激しくぶつかり介入しあうような暴力的な方法でもなく、演者一人ひとりの人格を尊重しながら『ロミオとジュリエット』に織り込んでいくような方法が模索されます。50代の俳優二人が『ロミオとジュリエット』を演じるという判断もこの一つでしょう。こういったやり方によって、“私の”『ロミオとジュリエット』が新しく物語られることになるし、ダンの心を再生させるような力となっていったのです。このあたりの機微は、心理療法などにおけるナラティブ・アプローチを思わせるところがあります。

 

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 というわけで、「文学ってとっても実用的!」と力づけられるような、地味で優しいけどジワジワ効いてくるよい作品でした。

 

人の奥底にある温かいものへの信頼~映画『スクール・オブ・ロック』(ネタバレあり)

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 映画『スクール・オブ・ロック』を見ました。公開当時に見て以来ですので、およそ20年ぶりの鑑賞でしょうか。有名作品ですので、ご覧になった方も多いかと思います。とにかく楽しくて元気が出る映画、という記憶でしたが、果たしてそれはその通りでした。


 友人になりすまして臨時教員としてとある進学校に潜り込んだ、売れないロッカー・デューイが、子どもたちの抑圧を解放して個性に応じた才能を開花させ、ロックのコンテストでの演奏を大成功させる…というストーリーです。


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 この映画の「楽しさ」はもちろん、ロックを演奏することの楽しさと直結しています。


 「元気が出る」要因は、人間には必ず秘められた才能や美点があり、適切にアプローチをすればそれはかならず開花するのだという、人への温かな信頼があること。主人公デューイは、定職につかずだらしない人間ですが、子どもたちの力を見抜き、やる気を出させ、かつ、アドリブを楽しめるほどの技術も身につけさせます。これらのことを、押し付けるのではなく、子どもたちの内発的なモチベーションを引き出すような形で行っているというのがデューイという人の魅力です。(そういう人だから、人を型にはめようとする「定」職には就けないのだとも言えます。)


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 それに加えて、今回、あらためて鑑賞して印象的だったのは、嘘と秘密の効用について一貫して描かれているということでした。


 そもそもデューイが学校に潜り込めたのも嘘がうまく機能したからですが、子どもたちに勉強ではなくロックバンドに取り組ませるために、子どもたちにも嘘をつきます。子どもたちがロックに乗り気になってからは、演奏の練習をするために、子どもとデューイは親や他の教員に嘘をつき、クラスを秘密の場所として“育てて”いきます。


 嘘や秘密を持つことは、子どもたちの成長や発展のためには大切なことだ、とは心理学の世界でよく言われることですが(河合隼雄『子どもの宇宙』など)、この映画を見るとこのことがよくわかります。

  

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 ところで、『スクール・オブ・ロック』のデューイとその教え子たちは、放課後に部活としてバンド活動を続け、それをビジネスとしても成功させているということがオチとなって映画は終わります。デューイの「ロックとは反抗だ」という信念からすると、公認され商業的にも成功した状態というのはロックではないのでは?という疑問もありえます(いわゆるセルアウトとか商業ロック問題)。しかし、ロックのことだけ考えて生きていきたい、というデューイの夢はこれによって見事叶い、浮世から離れつつ浮世に生きることを成功させます。

 

 そういった意味で、大人であるデューイを囲むのは、つねに成長の途上である“子ども”であることは象徴的であるなと思います。子どもたちと作るロック部という場は浦島太郎における龍宮城のような覚めてはならない夢の国であり、覚めない限りにおいてこの映画は、人々に夢を見させてくれる力を持ち続けるのだと言えるでしょう。

 

(2025.2.25追記)山折哲雄が出演していたETV『こころの時代』を見ていて思ったのだが、デューイ=良寛説、というのはどうだろうか。

言葉の力の光と影――映画『ビーイング・チャーリー』に見る、意志によるコントロールの不可能性について(ネタバレあり)

 映画『ビーイング・チャーリー』は、『スタンド・バイ・ミー』のロブ・ライナーが監督した、ある青年の物語です。

 

filmarks.com


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 主人公はチャーリー、父は海賊役を得意にしていた俳優で、現在カリフォルニア州知事に立候補して選挙戦の真っ只中です。母はそのような父の活動に付き合いながら、どうも乗り切れていないようです。チャーリーは18歳の誕生日を薬物の更生施設で迎えますが、そこから逃亡するシーンから映画は始まります。


 両親の対立があらわになるのは、チャーリーの処遇が問題になるときです。逃亡したチャーリーを次の施設にいれるのかどうか、入所した施設での外泊許可を与えるかどうかーー多くの人が想像する通り、父は厳格な対応を、母は慈愛に満ちた(ように見える)対応を望みます。


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 そこで、ではチャーリー本人はそう思うの?どうするの?というところですが、これは初めからはっきりしていて、自分のことは自分で決めたい、ただそれだけです。父とも違う、母とも違う、自分は自分。そうあるために、更生施設では“話す”ことを要求されます。プログラムとして実施されているエンカウンター・グループや自助グループでは、“話す”ことと、(自分自身を含む)話した人を“受容する”ことが強調されます。また、問題が発生したときにスタッフがまず掛ける言葉も「話せ」です。チャーリーもその方法に感化され、葛藤するガールフレンドに「話せ」と迫ったりします。


 チャーリーは最後に「雑音を消したかったから」薬物に走ったのだと父に打ち明けますが、この「雑音」は、外には出せない自分の内のごちゃごちゃして整理のつかない思いを指しているように思えます。そうだとすると、その思いを吐き出し誰かと整理し、自分の中に収め直す「対話」という手法は、薬物依存の治療にとって、たしかに有効だと思われます。


 ところが、このように一見すると善であり、妥当な方策だと思われる「対話」ですが、この映画では、口から吐かれる言葉は強い力を持つゆえ、「対話」はそう簡単なものではない、というところがこのあとこの映画では描かれていきます。これがたいそうリアルであり、また言葉を扱い「対話」を仕事にする者からすると、考えさせられるところ大でした。


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 まず、ガールフレンドのエヴァですが、外泊許可が出たりして、自由が増えていくほどに悩みを深めていきます。「話せ」とチャーリーは言いますが、エヴァはただ黙るのです。言葉が意志の発露だとすると、言葉が出ないということは、意志の表明への抵抗または恐怖があるということでしょう。たしかに、自分の意志で世界を切り開くには、この世はあまりにも広大で圧倒的です。エヴァにとって、その恐怖に打ち勝つには薬物やアルコールしかなく、それはチャーリーがたどってきた道でもあります。結局、エヴァはアルコールを飲みチャーリーの前から姿を消します。これは、話すという形で自分の中の毒の放出ができなかったために毒が自分の中で回ってしまったというようにも見えますし、チャーリーはそのようにはならない、ということを暗示しているようにも思えます。


 もう一人、言葉の毒にやられてしまった人がいます。チャーリーの親友のアダムです。アダムは飄々と生きている大学生として登場し、施設入所後にもチャーリーの能力を信じ、支える良き友です。チャーリーが最初の施設に入所するきっかけとなった薬物摂取の現場に一緒にいたのですが、一人がオーバードーズで亡くなり、チャーリーが施設に収容される中、アダムだけはなんともなく、翌日から高校生活に復帰していました。薬物とアルコールを摂取しながら、その頃の思い出話をするチャーリーとアダム。チャーリーが「お前は何事もうまくすり抜ける」というのですが、アダムは「あのとき迎えに来たうちの親は、ずっとだんまり。うちに帰ってようやく口を開いたと思ったら、“大学入試が近いから宿題をしなさい”と言ったんだ」と打ち明けるのです。その後、チャーリーがトイレに行ったちょっとした間に、アダムはオーバードーズの発作を起こし、チャーリーは救助しようとしますが、結局亡くなります。これは、直接の死因はオーバードーズですが、抑え込んでいた出来事や思いを言葉にしてしまったために、その毒気と薬毒とが拮抗し、死を呼んでしまったように思います。


 かように、言葉というのは話さなくてもだめ、話しすぎてもだめ、ほんとうに取り扱いの難しいものだと思わされます。


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 そしてこの映画でもっとも印象的だったのは、最後のくたびれ果てた父の姿です。マッチョな上昇志向に支えられ、強い意志によって自他をコントロールすることによって成功することを信じ切っていたような人でしたが、知事に当選してチャーリーの前に姿を表した父は、疲れ切り、困惑しているように見えました。それは、チャーリーとの関係性が難しいものとなっていたから、だけではないように思います。もはや、本当に知事になりたかったのか、知事になりたかったのは誰だかわからない、なんだったらそもそも知事になんてなりたくなかった、というような有り様で、要は、自分で自分に掛けたマチズモの呪文みたいなものが解けてしまったということなのでしょう。ここにも一つの、言葉(と行動)というものの呪詛の力の功罪のようなものが見える気がします。魔法が解け、父にとっての人生はこれから始まるのだろうと思わされます。


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 最後に、チャーリーは、いつも孤独を癒やしてくれていたスタンダップコメディの世界に進んだことが示唆されて映画は終わります。スタンダップコメディが好きで詳しいのには父の影響があるようですし、コメディアンとしての才能を支持してくれていたのはエヴァとアダムと施設職員のトラヴィスでした。また、母は、どのようであってもここにいていいのだという基本的信頼感をチャーリーにもたらしていました。こうして様々な人の存在を取り入れながら、人生のままならなさというものを、言葉の力によってバランスを取りライドしてみようということですが、嘘で真実をつくスタンダップコメディは、その手段として優れているように思います。


 人生は映画ではないので、ヒーローが現れて問題を解決したりすることはそうそうありません。出会う人がみな善と悪の両方を持っていて、それがたまたま効力を発揮して他人の人生に知らぬ間に影響を与えてそうして人は生きていくのです。この「たまたま」をどう考えるか、ということを描いた、なかなか味わいのある映画でした。

小さな定住革命――雑草は抜かれなくてはいけないの?

 

 

 このところ私が心奪われている、当オフィス卓上のエケベリアの鉢ですが、脇からなにかの草が生えてきました。この土は、植わっていた木が枯れたのでベランダに放置していた鉢から拝借したもの。ベランダに置いている間に、どこかから種が紛れ込んだのでしょうか。


 以前の写真も、よく見ると実は手前に小さな芽があるのですが、

www.po-po.org

あれよあれよという間に伸びてきて、「これは生えておるね」というような状況になってきました。このところ、この草をどうしたものか……と考えるのが日課になっています。


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 土や水や栄養の奪い合いになること、また美観を考えてもおそらく一般的には抜くものなのでしょうが、どこかから紛れ込んで生えてきたものを、美観などという人間の勝手で抜いてしまうというのはとても抵抗がある。しかしそもそもエケベリアを買ってきて、鉢に植え込むという時点で大いなる“反・自然”ではないか。とはいえ、人為的に植えたものと同じ場に、自然が殴り込んできた(というほど暴力的なものではありませんが)という偶然それ自体を楽しみたい…でもどこまでどう伸びるのかもわからないし………。


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 定住し、農耕を始めることが時間的・空間的・心理的“待ち”を生み、それこそが退屈の起源なのだ……ということを教えてくれたのは國分功一郎『暇と退屈の倫理学』ですが、自分のオフィスに鉢を置き、そこに植物を植え込むという行為は、私にとってはまさに「定住し、農耕する」ことです。過去(草の種はいつどこからやってきたのか)と未来(どこまでどう伸びるのか)と現在(確かに草がある)を移動しながらあれこれと空想するのは、豊かな退屈・遊びとしての揺らぎ、という感じがします。結局、こうして抜くか抜かないか……と悩んでいられるのも、手のひらの中で眺めていられるサイズの“自然”だからでしょう。つまりこれは、揺らぐ心というものを、手のひらサイズの器として、また、そこに充盈するなにか自体として、眺めて手を入れられる対象と捉える体験でもあります。そしてこれは、心理療法の起源に触れるような大切な営みだろうと感じているので、もう少し揺らいでみたいと思っているところです。

 

<参考文献>

ロイス・キース(2003)クララは歩かなくてはいけないの?.明石書店

國分功一郎(2015)暇と退屈の倫理学 増補新版.太田出版

西田正規(2007)人類史のなかの定住革命.講談社学術文庫