心理臨床オフィスポーポのブログ

大阪・上本町のカウンセリング専門機関です。

亡霊は“亡”であり“霊”でなくてはならない――映画『ナイトメア・アリー』に見る心理療法のエッセンス(ネタバレあり)

(画像は20世紀フォックスDVD販売サイトより)


 映画『ナイトメア・アリー』を見ました。ウィリアム・リンゼイ・グレシャムの小説『ナイトメア・アリー 悪夢小路』を原作とし、ギレルモ・デル・トロ監督が映画化した作品です。

 

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 主人公はスタン。見世物小屋に拾われ、読心術の出し物をしていたところ、座員・モリーと恋仲になり、一団を抜け出して独立することになります。高級ホテルで降霊術のマジックを披露していたスタンは、戦争で息子をなくしたキンブル判事夫妻と出会い、話術とちょっとした手口(是非映画で見てください)で、夫妻に亡くなった息子がそこにいて、また会えるかのような体験をさせます。

 ところが当然、実体として息子はいるわけはないので、息子に合うには死ねばよいのだ(死ぬよりない)と思い込んだキンブル夫人は、夫を撃ち、自分にも銃を向けます。さらに、女性を妊娠中絶させ死に追いやった経験のある大富豪・グリンドル氏にも、その助成と会うことができると持ちかけ、多額の金を得ます。モリーに変装させ亡くなった女性がそこにいるかのように演出しようとするのですが、グリンドル氏に見抜かれ、逆上した氏にスタンは殺されそうになります。反撃してグリンドル氏と用心棒を殺めたスタンは逃亡を余儀なくされます。そしてある見世物小屋にたどり着いたところで、生きた鶏をむさぼり食う出し物としての獣人(ギーク)となることを選び取ったのでした。


 こうしてあらすじを抜き出すと味気なくなりますが、美しい装置と映像によって夢のような世界に優しく導かれ、気がつけば巡りくる因果に囚われるしかなかったゴールでストンと現実に引き戻される体験は、映画を見なくては味わえないものだと思います。


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 この映画から導き出される一番の教訓(?)は、亡霊は亡霊でないといけないということだろうと思います。つまり、亡くなってこの世ならぬ存在になったものは、しっかりとあちらに送り出さないといけない。そして安全な方法で、安全なときにそのイメージだけが取り出されなければならない。

 臨床心理学や精神医学の世界では、こういった「あちらに送り出す」プロセスを「喪の作業」と呼びます。これを概念化したのはフロイトで、悲哀と思慕を感じながら、最終的には対象への執着を断ち切り克服しなくてはならないと考えました。現代では、ただ断念するのではなく、「継続する絆(continuing bond)」と言って、形や次元を変えて故人とのつながりを保っていくことが、生者が生者としてこの世にあるために大切なのだと考えられるようになりました。つまり、あちらとこちらを分けつつつなぐのが本来の喪の作業であり、心理療法の一つの役割として、このプロセスに立ち会うこともあります。


 故人を思う思慕の念は、生死と直結するものですから、安易に扱えばそれは畢竟、誰かの死につながります。人が人を思う心はそれほど強い力を持つものです。そういった念を閉じ込めている扉は、用もなく欲のために開いてはいけないのです。これは、心理士としての自戒の意味でも触れておかなくてはならないことです。


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 その一方で、スタンの人生を考えると、また、映画は一つのフィクションであり比喩でもあると捉えると、バッドエンドのように見えるギークとしてのスタンの誕生も、違った見え方をするものです。実はスタンは見世物小屋を出る前に、読心術を自分に教えたピートに密造酒を出し、それによってピートは亡くなっています。人を死に追いやった自分にも、有能な人間でいることで存在価値があるのだと思い込もうとしているように見えますし、父親のような手本としてのピートを追いかけることで、代償しようとしているようにも見えます。これは罪悪感からそのようにしているようにも見えるかもしれませんが、罪悪感が自分の卑小さを受け入れることから始まるのだとすると、こういったスタンの行動は、罪ある存在である(誰しも多かれ少なかれそうであるような)自分を受け入れることからの逃避であると言えます。

  

 アディクションのことでもよく言われることですが、いつかは破綻する追いかけっこのような逃避の日々は、破綻することが一つの安堵となり、それがゴールではなくスタートにもなりうるようなものです。つまり、自分を含めた誰かを傷つけた血に塗れた存在として生きることを受け入れることから真の罪悪感が生まれるのだと考えると、心理的に獣人として丸裸になったスタンの誕生に立ち会うことが心理療法であるとも言えるのだと思います。(そう思うと「エノク」の存在―これも映画でご確認くださいーもよくできていると思います。)そういった意味で、心理療法の真価について考えさせられる興味深い映画であったと思いました。

 

 

心は分裂しスウィングする――木ノ下歌舞伎『勧進帳』

 

 先日、京都芸術劇場・春秋座で木ノ下歌舞伎『勧進帳』を観てきました。

木ノ下歌舞伎 official website – 京都を拠点に活動する木ノ下歌舞伎のウェブサイト

 

お芝居というか舞台芸術全般に疎いので、楽しめるかどうかと心配しましたが、なんのなんの、とても心動かされる貴重な体験となりました。


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 『勧進帳』は歌舞伎の演目として有名ですが、今回観たのは、木ノ下歌舞伎主宰の木ノ下裕一が補綴をし、杉原邦生が演出をし、新たな物語として再構築したもの。


 義経は、兄・頼朝から謀反を疑われ、奥州へと逃げようとする。家来である弁慶始め4名は山伏に、義経は山伏の荷物持ちである強力(ごうりき)に変装して安宅の関の突破を試みる。そこで待ち受けるのが、関守である富樫以下4名の従者である。

 富樫らは、義経らが山伏に変装しているとの情報を得て、山伏という山伏を殺すという単純な方法で義経らの関越えを防ごうとしている。ところがいざやってきた義経は強力の姿をしているためにすぐに義経であるとは見抜かれない。また、山伏になった弁慶が勧進帳を暗唱し、あらゆる質問に答えられるもんだから、富樫の判断が揺れ動き、結局、義経らを通してやるのである。


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 ここでの富樫は、社会的に与えられた役割として関守をやっている。頼朝への忠誠心というよりも、関守を任されているという事実自体にプライドを持ち、それが存在の根拠であると思い込もうとしている感じ。冷たそうでもあるんだが、なにせつまらなそうな人として演出されている。

 一方の弁慶は、義経への忠義心ももちろんありそうだが、それよりも山伏を演じることへのエネルギーに満ち、演じて騙すことに遊びとしての楽しさを見つけてしまった人のように見えた。強力に扮した義経が富樫によって疑われたので、あくまで強力であると示すために義経を打ち据えて見せる場面があり、その後弁慶は申し訳ないことをしたと反省するのだが、これも、目上の人物である義経に無礼を働いたということよりも、演技にのめり込んで我を忘れたことへの申し訳無さであると理解するほうが自然だと思う演出であった。


 要は、「あるあるこういうこと」「いるいるこういう人」と今の人も感じやすいところを取り出して描いて見せているのだと思う。私個人の、物知らぬ者の偏見として、歌舞伎や浄瑠璃といった近世の芸術は、忠義のために人が(特に子どもが)可哀想な目に遭うというイメージが拭いがたくあり、それゆえに触れがたいものを感じていたのだが、そういった思い込みを吹っ飛ばしてくれる現代的な解釈がとてもよかった。


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 そして今回、印象的だったのが、舞台装置と配役。

 関所そのものは舞台装置として設置されておらず、弁慶ら・富樫らが向いている方向で、どこに関があり、それを誰がどちらに越えようとしているのかが分かる仕組み。面白いのは義経・弁慶の従者4人、富樫の従者4人で、同じ4名の役者が演じ、右に左に移動することでどちらの従者であるのかが示される。ところが与えられているキャラ(熱血・心配性など)は不変であり、誰に従っているとかどこに仕えているとか、そういった表面的なことには関わらない、人間としての本性があるということがわかる。その一方で、この4人が左右に振れることで、4人の存在がぶつかり合い、その振動が弁慶や富樫に伝わって、二人の心も揺るがされ混ぜ合わされる。あんなにつまんなそうだった富樫が、あんなに生き生きとするなんて。


 舞台ではそれぞれの登場人物として分け持たれる形で可視化されていたのだけれど、よく考えると、ひと一人の心のなかに、忠義も欲望も悲しみも不安も恐怖も喜びもあって、そういったものは、それぞれがその時々に前景に出たり後景に退いたりしながら、いつも常に揺れ動いている。それが生きた心であり、人が生きるということでもあると思う。


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勧進帳_人物相関図
 木ノ下裕一自身が書いたこの人物相関図が大好きで、観に行く前も、観たあとも、何度も眺めた。

(木ノ下歌舞伎HPより引用)


 人とのつながり、生まれ育ったところ、社会的に与えられた使命、恐怖や喜びといった(自分の)感情ーーそういったものが、善悪・敵味方・内と外などを分ける安宅の関を挟んで、右に左に揺れ動く。それは揺らぐからこそ、変化の可能性がそこにあるのだ。そういったことがよくわかる図であり、芝居であったと思う。


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 私が観た回は、木ノ下裕一と杉原邦生のアフタートークがあり、ここで初めて、演者の体調不良等の際に代演をするスウィング俳優という存在があることを知った。スウィング俳優は公演に同行するのだが、有事のための存在なので多くの場合は控えで終わる。ところが9月の東京公演では、スウィング俳優が出演すると予め決められた回も設定されたのだという。『勧進帳』は木ノ下歌舞伎では何度も同じ配役で上演されてきた演目ゆえ解釈や演技が固定していたところに、スウィング俳優の視点が入ることで、新たな舞台を造形することができたということであった。これもまた、“スウィング”の可能性をよく示すエピソードである。

人間でいるのはとても大変――映画『こわれゆく女』と『かぐや姫の物語』

 ジョン・カサヴェテス監督の映画『こわれゆく女』を見ました。

www.zaziefilms.com

 この映画は、ある一人の女性が“こわれゆく”プロセスを描いたものです。ここで「こわれゆく」に“”をつけたのは、誰が彼女がこわれているとみなしたのか、または、何が彼女をこわしたのか、というところがポイントになっている映画だから。


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 主人公のメイベルは専業主婦らしい。市の土木課の仕事に就いて現場で働く夫と、3人の子どもと暮らしている。夫が連れ帰る仕事仲間をもてなし、親をもてなし、子どもの友達とその親をもてなし…と、家に来る人たちをあれこれともてなす。しかしどうもそのもてなしが過剰でずれていたり、逆につばを吐いてブーイングすることもあったりということで、姑や夫や医者から“異常”を指摘され、要治療であると入院をさせられてしまいます。


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 たしかに観客からしても、彼女のふるまいは、一見奇妙と感じられるように描かれています。ところが、映画が進行していくうちに、彼女の不自然な”もてなし”は、良き妻であること、良き母であること、良き娘であることを求められ、それが彼女の本性との不和を起こしていることから発生していることが見えてきます。


 自分(と夫)の空間に次々に侵入してくる他者は、良き〇〇であることを要求する何者かを具現化した存在です。これが内面化されると、分析心理学(ユング心理学)の世界では「ペルソナ」と呼ばれるような、そんな存在です。「ペルソナ」とは、社会集団の中で生きていくには備えておく必要がありますが、個人としての存在を潰したり変形させたりして毀損する可能性もある、取り扱いの難しいものでもあります。メイベルの苦しみは、この個人と社会との摩擦(葛藤)の中にあるのだと思います。


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 そして極めつけは、メイベルの退院後に起こること。


 メイベルにとっての入院とは、心の平穏というか精神の鎮静というか、そういうものを得て来いという周囲のメッセージを含むものでした。それなのに、退院当日の自宅には、夫によって山盛りの人が招待されているのです。そして、そういった中で混乱し、疲れているメイベルに対し、あろうことか夫は、「自分らしくいたらいいんだよ」と、「ブー」っとつばを吐くことを彼女に求めるのです。


 つばを吐くことこそ、彼女が唯一、誰にも侵されず自分の領分を発揮できる行為でした。だからこそ周りの人は眉を潜めていたわけですが、それすらも、こうして周囲の要請の中に取り込まれてしまうのです。


 とうとう耐えられなくなった彼女は、ダーッと家中を走り回りだします。


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 ダーッと走り出す主人公を見て、想起したのが高畑勲監督『かぐや姫の物語』でした。この映画の主人公・かぐや姫も、人間でいるには、大人でいるには、女性/男性でいるには、と様々な型が外からやってきて、とうとう耐えられなくなってダーッと走り出します。そして最後には昇天し、人間であることから離れるのです。


 一方、メイベルは、3人の子どもをそれぞれ上手に寝かしつけることによって、人間としての自分を取り戻します。子どもが落ち着いて寝られるのは、メイベルが母であるからというよりも、一人の人間として自分と向き合ってくれているということが、子どもにもわかるからだろうと感じさせます。そして、それこそが彼女の自然な姿なのだろうと思わせるのです。


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 『こわれゆく女』は、自分だけの空間にしたくて台所のドアに張ってある「PRIVATE」のプレートが、ずっと目に心に痛々しく映る映画でした。


 とにかく人間でいるのは大変。

 

二重らせんの果てなきダンスーー映画『イニシェリン島の精霊』について(ネタバレあり)

 映画『イニシェリン島の精霊』を見ました。まだまだ上映中の地域も多い映画ですから、これから見ようと思っておられる方々、以下、ネタバレ注意です。

www.searchlightpictures.jp

 

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 映画の舞台であるイニシェリン島は、アイルランドにあるとされています。ここでは、動物の世話をし、14時になったらパブに行ってビールを飲んで同じ仲間と会って喋って家に帰って寝る、という毎日が繰り返されています。いわば、円環のように時間が回る世界です。これは中世的な時間の感覚で(阿部、1987)、現代では"子どものような”と言われるような時間認識です(子どもは昨日・今日・明日という概念やカレンダー的なスケジュール感を持っていないことが多い)。

 ところが、この円環を切断するような事件が起きます。主人公・パードリックの14時の友であるコルムが、「パブに行かない」「二度と自分に話しかけるな」と告げてくるのです。何が起こったのかわからないパードリックは、それでも14時にコルムを迎えに行き、「どうしてなのだ」と執拗に話しかけます。これに対してコルムは「これ以上話しかけるな。これ以上かまうなら自分の指を切断する」と言うのです。

 どうしてコルムはこのようなことを言い出したのか。音楽を愛するコルムは「人生の残りの時間を音楽のために使いたい」。つまり、時間というものは円環に循環するだけでなく、線状に流れる――終わり(と始まり)がある――ということに気がついてしまったのです。昨日も今日も区別のない世界から、昨日と今日は違う、なんだったら昨日よりも今日は前進していなくてはならない、という世界に入り込んでしまったのです。

 この"昨日よりも今日は前進"という理念に取り憑かれてしまったコルムは、パードリックの止まない干渉に、自分の指を切断し、パードリックの家に投げつけることまでします。コルムはフィドルを愛し、そのために残りの人生を捧げようとしているというのに。自分の理念(理想)を徹底しようとした結果、指を切断するという行為(performance)が呼び起こされるのです。ところが、この指を切断するという行為が、パードリックの円環への執着を促進し、コルムを執拗にパブに誘うという行動を呼びます。これによって更にコルムは指を切らざるを得なくなり、パードリックはコルムの理念の妨害に執念を燃やし…最後には、"14時”にパードリックはコルムの家に火を着けることになります。前進を求めたコルムの14時は"パードリックを避ける”ことの繰り返しであったのに対し、毎日同じ14時に執着したパードリックの14時は、「今日と違って明日は14時に火を着ける」という理念(理想)のもと、「昨日は着けなかった火を今日は着けた」と変化をしたのです。 

 

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 線的な時間に目覚めたとは言え、コルムが切断するのはあくまで自分の指です。パードリックの妹のように島外に出るわけでもなく、パードリックに危害を加えたり「お前も目覚めよ」と変化を求めるわけではないのです。また、理念(理想)は未来のこととして常に未遂(未完)であることが必要なのであるのに対し、行為(performance)は常に今ここで現在進行系で遂行されていくものです。つまり、理念と行為は対照的な性質を持っています。上に見たように、コルムは理念(理想)を持つこととなりました。その徹底が自らの"切断”という行為に繋がります。反対に、パードリックは徹底して”行為”の人で、常に今を生きているし常に動いているのだけれど、コルムの”理念”に裏打ちされた”行為”を向けられることでついに”理念”を持つことになります。また、コルムの指の”切断”が、パードリックの”結合”への執着を生むことや、指の”切断”は理念への”結合”を求めてのことである点も、面白いところだと思います。つまり、理念と行為、切断と結合は、対立的・対照的な事象ではあるけれどもそれだけではなく、互いが互いを支え合っているような相補的な関係にあるともいえます。

 このように、パードリックとコルムの体を借りながら、”理念”と”行為”、”切断”と”結合”が入れ代わり立ち代わりダンスする――まるでDNAの二重らせんが複製され合成されていくように。らせんとは、円環と線を合わせたようなものですから、二人の時間の流れの止揚をそこに見ることができるかもしれない。そんなイメージの膨らむ映画でありました。

 

<参考文献>

阿部謹也(1987)中世賤民の宇宙―ヨーロッパ原点への旅.筑摩書房

“ない”がある

 

 昨年の9月いっぱいで閉館したテアトル梅田の現在です。

 

 写真がうまくないのですが、空洞になったまま、今もそこにあります。

 テアトル梅田の閉館については、以前に『消えるものは消えるのか』という記事を書きましたが、その灯は消えたものの、消えたものとしてそこに存在しているということです。

 

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 梅田という繁華街の中に、このような空洞があるというのは考えてみれば面白いものです。覗き込んではそこにあった姿が心に浮かび、そこにいたであろう人が幻影のように蘇り、出会った映画、ハプニング、様々な物事が私の周りを包み込むようです。

 こういった、自分の中にある体験やその記憶、なかったかもしれない出来事、空想、ファンタジー、それに付随する感情などを投げ込める場所として、これほど充実した空虚はないかもしれません。


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 臨床心理学では、心の中に意識の層と無意識の層があると想定することがあります。具体的には、意識して意志を持って発動し認識できる心の機能(意識)の基部に、自分の意図とは関わりなく動いている機能(無意識)があると考えます。

 

 

この図はユング派分析家である河合隼雄が図示した心の姿ですが(河合隼雄(1977)『無意識の構造』より)、生物として持っている本能や勝手に発動する感情、人が集合して生活するにあたって築き共有し、自然にそう振る舞わせるような文化やルールを内面化したものなどをまとめて普遍的無意識と呼び、それとは別に、個別的な体験や性質に基づいて個人にわけ持たれている心の部分があり、自分で自分の心情として認識できるのはその一部であると見るのです。

 人は意外と自分のことを自分でコントロールできないし、必ずしもそうする必要もないという考え方がこの背景にはあります。ただし、その制御できなさが生活を脅かす場合には、意識と無意識のバランスを作り直す必要があります。これが心理療法と呼ばれる営みの一端です。

 つまり、心理療法とは、自分の意識と無意識の関係を捉え直すこと。しかし無意識とは意識できないからこそ無意識なのであるから、それをどこかに映し出し、投げ込む媒体が必要になります。このような媒体の一つとして夢があり(『夢分析について』)、描画があり(『カメラロールを眺めてみよう』)、ロールシャッハ・テストなどの投影法と呼ばれる心理検査があります。

 そう思って先ほどのテアトル梅田の写真を見ると、(あまり写っていませんが)変わらず営業している地上のLOFTと、(半)地下の暗闇とがまるで「意識」と「無意識」のように見えてくるから不思議です。“もうないのだ”という事実を突きつけられる悲しみもありますが、今や様々なものを投げ込むことができる空間となっていて、その空間は私の中で私のものとしてあり続けます。ここに傷つきと癒やしについて考えるヒントが有るようにも思うのです。


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 これは本当にあったこと?

 

 

 

 

 

 

命が命を慈しむこと-映画『私は白鳥』について(2022.10.21一部加筆)

 

 一旦書いた文章でしたが、どうしても納得いかない部分があり、以下加筆して公開します。 (怖い話ではありません…。)

 

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 配信で、映画『私は白鳥』を見ました(トップ画像はHPより引用)。富山に住む澤江さんが、越冬に来る白鳥を追い、撮り、声を交わし合う姿を4年にわたって取材した映画です。

www.watashi-hakucho.com


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 映画の中心になっているのは、羽の折れた一羽の白鳥と澤江さんとの交歓。ここでの「交歓」とは、喜びだけでなく、飛べずに仲間とはぐれる孤独も、それでも飛んで自由を味わおうとする希望も、それがくじける痛みも、個体としての生命の終焉も、何もかもともに味わおうとする、そんな姿です。雪まみれになり、まさに命を削りあってともにいようとする澤江さんですが、どこまでいっても一体にはなれないという哀しさもまた、そこにはあるように思いました。


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 とても素晴らしい映画だと思いましたが、引っかかる点がなかったわけではありません。澤江さんがこれまでどのように生きてこられたのか、インタビューをしているところがあるのですが、どうもその編集の仕方が、“独身男性が人恋しさから、その代理として?紛らわすものとして?白鳥を追い続けている”というストーリーをほのめかしているように見えてしまうのです。つがいからはぐれ、一羽でいる白鳥に自らの姿を投影しているという見方です。


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 どうして私はここに引っかかりを覚えたのか。


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 映画の中に、いくつか忘れがたい澤江さんの語りがありました。メモを取ったわけではないので正確ではないのですが、「白鳥が白鳥を世話している」「とにかく命を楽しんでほしい。私も命を楽しむ」。胸が突き上げられるような言葉です。

 一方で、“つがいとなるパートナーがないこと”“それを寂しい事態であると判断すること”は、極めて人間的な、「世間」を基準にした価値観に基づいたものの見方であるように思います。(ですから先の段落であえて「“人”恋しさ」と書きました。)一般的に理解しがたい存在に出会ったとき、人間は理由を求め、物語を作ることによってそれを受け入れていくことができるという側面はありますから、人々の間に流通することが望まれる映画作品としては、このような文脈を紛れ込ませることにも意義があるのだろうとは思います。(そしてこの「物語」を作ることが心理療法であるとされることも往々にしてあります。)

 しかしこの映画に映し出されているのは、人間であるとか白鳥であるとかそういった属性を超えた生命賛歌であるように思います。とにかく生命が生命を慈しみ尽くすことーー私が考える心理療法の真髄とはをこれであると思うのです。この映画の“物語”は、このことを逆説的に教えてくれるように思いましたし、それによって私は、引っかかりのからくりに気がつくことができました。   (2022.10.21 一部加筆しました)

 

命が命を慈しむこと-映画『私は白鳥』について

 配信で、映画『私は白鳥』を見ました。富山に住む澤江さんが、越冬に来る白鳥を追い、撮り、声を交わし合う姿を4年にわたって取材した映画です。

www.watashi-hakucho.com


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 映画の中心になっているのは、羽の折れた一羽の白鳥と澤江さんとの交歓。ここでの「交歓」とは、喜びだけでなく、飛べずに仲間とはぐれる孤独も、それでも飛んで自由を味わおうとする希望も、それがくじける痛みも、個体としての生命の終焉も、何もかもともに味わおうとする、そんな姿です。雪まみれになり、まさに命を削りあってともにいようとする澤江さんですが、どこまでいっても一体にはなれないという哀しさもまた、そこにはあるように思いました。


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 いくつか忘れがたい澤江さんの語りがありました。メモを取ったわけではないので正確ではないのですが、「白鳥が白鳥を世話している」「とにかく命を楽しんでほしい。私も命を楽しむ」。胸が突き上げられるような言葉です。

 ここにあるのは、人間であるとか白鳥であるとかそういった属性を超えた生命賛歌であるように思います。とにかく生命が生命を慈しみ尽くすことー私が考える心理療法にも通ずる真理を見せてもらったような気がしました。