心理臨床オフィスポーポのブログ

大阪・上本町のカウンセリング専門機関です。

消えるものは消えるのか

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 様々な人や物が、急に消えてなくなってしまうことが相次いだ数ヶ月でした。

 いくつものそういった体験の中から、ここに書き記しておきたい二つのことを。


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 精神科医中井久夫が亡くなりました。8月8日のことです。多方面で活躍した人ですが、この記事にあるとおり風景構成法の発案を発案されたという偉業があり、それが私にとってはいちばん大切でした。風景構成法とは、風景の絵を描いてもらうことで描き手の心の様子をともに見たり、描き手が自分の心の動き方を味わったりする心理療法上の技法です。以前にブログ記事で触れたことがあるのですが、

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研究者でもある私は研究テーマの中心を描画療法に据えていて、中でも風景構成法について考えることの多い日々です。また、6月に阿倍野市民学習センターで開かれた公開講座では、風景構成法についてお話ししたところでした。

 とはいえ先生とは直接の面識はなく、主に文献を通じて教えを乞うたような形ですが、河合隼雄とともに、人の心という「わかるはずがない」ものといかに関わっていくか、という大きなところを教示されたように思っています。

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 そして、こちらは厳密に言えば “まだなくなってはいない” のですが、テアトル梅田の閉館の知らせです。


 ブログで記事にしたものだけでも『この世界の片隅に』『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を見ましたし、『裁かるゝジャンヌ』など一連のカール・テオドア・ドライヤー作品も非常に印象深い体験でした。

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 もちろんそれだけではなくて、たくさんの作品をここで見ましたし、この夏はウォン・カーウァイ作品の4Kレストア版を何度も見ることになりました。(『花様年華』の美しさと来たら!)


 いつもそこにあると、当然あると思っているものがなくなるということはこんなにも心を落ち着かなくさせるものかとこのところ毎日感じています。梅田ロフトの脇から階段で地下に降りて、暗闇の中の光を見るという行為は、自覚している以上に自分を支えてくれていたということです。


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 心理学や宗教学の立場では、失われた人や物とのつながりは、それまでとは形を変えて「継続する絆(contimuing bonds)」として維持されるのだと言われたりします。これは、“ずっとそばで見てくれている”という包まれるような感触だけでなく、“それでも私は生きていく”という諦めや決意、もしくはある種の格闘などの主体的な(言葉の純粋な意味としての)アウトリーチの作用を必然的にもたらすものなのだろうと思います。それでも生きるんです。

 

 

この世はいつもstrange --映画『幸福路のチー』について

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 「srange」という英単語を習ったのは中学生の頃だったでしょうか。この言葉を知った時、私は大きな安心感に包まれたのを覚えています。海外の人もこういった“なんか変”を感じるのだ、と。


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 「strange」という単語は、「変」「奇妙な」と訳されることも多いですが、「なじみのない」というのが最も語源に近い意味で、そこに発する“浮いている”感じが「奇妙」ということなのだろうと思います。またここから、strangeな感じを漂わせている人のことをstrangerと言ったりもします。どこに行っても誰とも何もできない私が安心したのは、周囲の人や環境になじまない存在を見つけ出す感覚というのは、日本に限らず文化をまたいで人間に共通して持たれるもので、つまり、“あいつはstrangeだ”と指差されるような私の仲間はきっと世界中にたくさんいて、私はひとりぼっちではないと感じたということだと思います。


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 しかし考えてみればそもそも、人間というのはすでにあるこの世界の中にどこかからやってくるわけで、あらゆる人がこの世のstrangerとして生を始めるとも考えられます。また、成長する内に自分のことをはねのけるような存在にぶち当たることもあって、そこではstrangeな存在から”おまえこそstrangeなのだ”と突きつけられるわけで、これは自分にとってなじみのある世界から見捨てられるような体験です。個として人間が生存するためには、こういった切り離される体験というのは欠くべからざるプロセスではありますが、しかしこれは、自分をこの世につなぎとめてくれる何かの存在が同時にあるからこそ、安全に体験されるようなものでもあります。


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 台湾のアニメ映画『幸福路のチー』は、一人の女性の“strange”をめぐる物語であると、私は見ました。

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 具体的には、アジア的な学歴社会の中で親の期待に応えること/応えないこと、(国際)結婚する/離婚すること、働くこと…様々な対立項の中で、strangeにならないこととoriginalな自分の内発性を大切にすることの間に揺らぐ女性の姿が描かれます。最後には、妊娠するというstrangeな状況をどのように生きていくかという大問題が立ちはだかります。また、社会情勢や災害など、個人や人間を超えたものの中で、圧倒されながらも、結局は世界にとっては皆がstrangerなのだと気がついていくようなところもあります。

 高畑勲監督の『おもひでぽろぽろ』などの影響を受けて作られた映画のようですが、『この世界の片隅に』や『かぐや姫の物語』にも通ずるものがあるとも思います。また絵柄は、『この世界の片隅に』のようでもあり『ちびまる子ちゃん』のようでもあり『クレヨンしんちゃん』のようでもあり、このあたりも、なじめるようなstrangeなような、不思議な気持ちになれて面白い作品でした。

生きることの虚しさと輝き--『mid90s』の繋がれないつながり

 

 見たいと思いながら見逃していた映画『mid90s』を鑑賞しました。俳優のジョナ・ヒルが監督を務めた映画で、スケーター映画として、また90年代のファッションや音楽へのノスタルジーをまとった作品として宣伝されていたものです。

 

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 私は90年代に中高生時代を送り、ヒップホップにも大きな影響を受けましたから、まさに“あの頃”が蘇るようなモチーフの数々に、懐かしさや切なさを感じながら見ることとなりました。

 

 しかしそれ以上にこの映画は、思春期のどうにもならなさを描いた映画として、普遍的な美しさを持つものであると思いました。

 

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 どこかに何かをぶつけたくて吐き出したくて爆発しそうなあの感じ、みんなが羨ましくて、それでも自分のほうがすごいと思いたくて人を傷つけて、でもみんな痛みを抱えながら生きていることにも少しずつ気がついていて。一方で大人は手本にならないし、でも抑制だけは求めてきて、だから一緒にいるときには、ここではないどこかに逃げることばかり考える……そんな感覚が見事に描き出されています。

 

 本作の主人公はスティーヴィーという少年ですが、家族に父はおらず母は早くに子を持ったことを後悔し、兄は日々の鬱屈をスティーヴィーにぶつける。そんなわけで家に彼の居所はなく、近所のスケーター集団の中に親密な体験を求めていきます。この集団は、スケートによってリンクしてはいますが、みな人種も家庭環境も異なっていて、集まっていればいるほど自分の孤独が帰って浮き彫りになるような、そんな関係です。騒いでいても、虚しい。

 

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 臨床心理学の観点から見た成人となることの現代的困難について、河合隼雄『大人になることのむずかしさ』という本を物しています。ここでは、皆が共有できるような成人としての像がないこと、自分なりに見つけた理想を追っても、追いつく頃にはその理想は理想としての価値をすでに失っていることなど現代社会の特徴を押さえた上で、そういった中での青少年の自己を切り出し確立するための試行錯誤が、“問題行動”の様相を帯びることの必然性が論じられています。

 

 そういった点からも、この映画にはいくつかの(いくつもの)鮮烈な印象を残す場面がありますが、たとえばスティーヴィーが跳躍するあの場面は、通過儀礼・イニシエーションとしてのバンジージャンプを思わせます。また、血の繋がりがあってもなくても、それぞれ別の人格を持って生きていくし、そうしなくてはならないし、それでいいのだ、ということに関わって、入院中の主人公に兄が差し出す飲み物の描写が見事です。

 

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 終盤のあっけなさと突然の解放という点では『桐島、部活やめるってよ』(吉田大八監督)を、思春期の暴力性や死との接近という意味では『岸和田少年愚連隊 血煙純情篇』(三池崇史監督)を、そしてそういう日々は続くよどこまでも、というところでは『アナザーラウンド』(トマス・ヴィンターベア監督)などを連想させました。こうして我々は生きていくのです。

 

受け継ぐことの難しさと尊さ――『Hello! Super Collection 超コレクション展 ―99のものがたり―』について

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大阪・中之島にあらたに開設された大阪中之島美術館に行ってきました。現在、『Hello!SuperCollection 超コレクション展 ―99のものがたり―』という特別展を開催中です。

nakka-art.jp


この展覧会は、開館までに40年をかけて大阪市が収集してきた美術品を総まくりできるような内容になっています。


佐伯祐三の『郵便配達夫』やモディリアーニの『髪をほどいた横たわる裸婦』など、“名物”作品の展示もあります。

また、サントリーミュージアム天保山など、大阪市に生まれては消えていった美術館から寄託されたり譲り受けたりした作品も多数あって、大阪市の変遷やそこで何が動いていたのかということに思いを馳せつつ、つながりと信頼によって美術作品が受け継がれていくことの尊さを実感できました。

個人的には、心斎橋にあった展示室(旧出光美術館)で出会って、大阪モダニズムを突きつけられた、前田藤四郎の作品をまた見られたのが、とても感慨深かった。

 

件の佐伯祐三作品など、館の“推し”の作品は、写真撮影もできます。


設置が決まってから、荒波・吹雪を乗り越えての開館です。灯を絶やさぬように、コレクションを散逸させないように、思いを燃やし続けた(これがいかに困難なことであるか!)関係者の方々の思いが、物量・熱量として伝わってくるような展示でした。


今のご時世に人が集まるところに出かけることには難しさもありますが、入場制限がかけられていて、密にならない環境が維持されていました。できれば事前にチケットを購入して、安心できるようでしたらぜひ、出かけてみてください。

 

<私>として生きることの煩悶――カール・テオドア・ドライヤー『裁かるゝジャンヌ』について

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 少し前のことですが、テアトル梅田のカール・テオドア・ドライヤーセレクションを見に行きました。

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 カール・テオドア・ドライヤーはデンマークの映画監督で、20世紀初頭から中後期にかけて活動した人。つまり、無声映画からトーキーへと、谷を越えるように映画制作をした人です。

 今回の特集では、『裁かるゝジャンヌ』『怒りの日』『奇跡』『ゲアトルーズ』の4本が上映され、4本とも見ることができました。いずれも強いインパクトを残す作品でしたが、もっとも印象に残ったのは『裁かるゝジャンヌ』でした。


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 『裁かるゝジャンヌ』は、ジャンヌ・ダルクの生涯でも、異端審問にあってから火刑に処されるまでのジャンヌの心の動きを克明に映し込んだサイレント映画(今回の上映ではカロル・モサコフスキによるパイプオルガンの伴奏あり)です。

 映画の技法としては、ノーメイクでジャンヌ役のルネ・ファルコネッティの顔のアップを取り、その変化で心情を描出している画期的な演出法が取られています。このことと、ジャンヌの裁判記録から取られた中間字幕とによって、生と死、人間と神、断罪と赦しの間を揺れ動く、一つの生命としてのジャンヌの軌跡を描き出したものだと言えます。


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 よく知られているように、ジャンヌは、フランスでは聖女と賛美され、イギリスが先導する異端審問では悪魔の名を着せられました。この映画では、聖女や悪魔とは周囲の人がそのように呼ぶものであって、彼女は自分の必然性に突き動かされてただ一人の人間として生きていたのだということが、誰も見向きもしない藁の王冠と彼女の関係によって表現されます。彼女の信仰とは、共同体に強いられるものではなく、<私>が<私>のためにするものであった。審問官も民衆も、それが認められないから、一人の同じ人間を「聖女」としたり「悪魔」としたりするのです。しかし実際には彼女はそのどちらでもなく、<私>の内側から湧き上がる何かを守りながら生きたい人であったのです。

 “火あぶり”となっている以上、この結末をただ美しいと単純に称えることはできません。しかし、人間が、他ならぬ<私>でありつづけるということがいかに苦しく、いかに魅惑的なものであるのかということを、私はこの映画によって心に刻むこととなりました。


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 そして実は、煩悶するジャンヌのクロース・アップを見ながら、私の心にはポーポのアイコンとしているキンシバイのイメージがずっと浮かんでいました。

 この写真は、道端に見つけて直感的に撮ったものです。水に濡れ、枯れた花もついていますが、私自身がどうしてこの花に惹かれたのか、私自身が心理療法において何をしようとしているのか、少しわかったような気がする映画体験でした。

私は共同体にどのように接続されるのか--『この世界の片隅に』について

この世界の片隅に』という映画があります。大ヒットロングランでしたし、テレビでも放映されましたので、ご存知の方が多いと思います。

konosekai.jp

  この映画は、いわゆる反戦メッセージを含んだものとして、また“そのわりに説教くさくない”ものとして語られることが多いように思います。戦時下にありながら主人公すずさんが日常を楽しむ様子を微笑ましく描写しているところに、戦争を扱った映画としては新鮮なものを感じた人が多かったようです。もちろん、それは間違ってはいないのでしょうが、私は別のものをこの映画に見ました。すずさんの“ほんわか”さではなく、“ほんわか”したものの怖さを描いているーーそのためにすずさんを敢えて“ほんわか”したものとして描いているーー作品だと思いました。それは、個人がいかにして個人となり、それがいかにして社会や共同体といったものと(再)接続されうるものか、という話に関わります。

 

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   我々はすでにある世界に生まれてきて育ちます。すずさんは、天賦の描く才能・描きたい本能を持ちますが、その才能と本能は、結婚して郷里を離れてもそのまま維持され続けます。というよりも、この結婚そのものが、与えられたものを与えられたと考えることもなく生きていくというすずさんのあり方をよく示しています。結婚というのはある種のイニシエーションとなりうるような出来事ですが、すずさんの場合はそうではありません。そしてこの“与えられるがままに”というのがすずさんの“ほんわか”の本質であり、話題となった炊事のシーンなども、こういった生き方を描いたものと言えます。

   しかしこの与えられた才能は強大な力によって奪われてようやく、それはどこかから与えられたものであると同時に、自らが主体となって行使するようなものであったと気がつくのです。気がついたときにはもう描けない状態になっていますし、それはそれまで自分が帰属していた世界からの分離と自らのコントロールの喪失を意味しますから、とてつもない混乱と恐怖と不安となって押し寄せるのです。


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 また、子を持つというのも、結婚と同様に、与えられるものから与えるものへとイニシエートされるような体験となりえますが、すずさんの場合はそれがかないません(こうの史代の原作と、場面を足して公開された映画『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』には、明確にそのような描写がなされています)。

ikutsumono-katasumini.jp

 すずさんが焼け跡の孤児を育てようと決意するのは、描くことよりもさらに運命の支配が強い“子を持つ”ということについて、自分からコミットしていくことによって、世界や共同体と(再度)接続されようとするすずさんの覚悟を描いたのだと私は見ました。そしてそれが、私の心を強く打ちました。風に飛ばされることしかできないたんぽぽから、風に乗ることも逆らうこともできる鳥へと、自分を託す対象が変わるのは、こういったすずさんの存在様式の転換をうまく表現しているように思います。


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   集団の秩序を維持するためにはそれとぶつかる個人の欲望は飼いならす必要があり、「飼いならす」ためには自分というものを知る必要があります。また、ある程度は自分を変形させて周囲になじませる必要がある一方で、自分が不当に痛めつけられるような場合には、異議申し立てを行って、周囲を変形させる、または別のコミュニティに移るなどして自分とコミュニティを切り離しながら接続させるような行為が必要になります。こうして所与のコミュニティから自分を切り離すことが個人の存在を生み、それは周囲の共同体とのつながりがあってこそ、その存在が保証されるようなものなのです。人間の文明はこうして発展してきた歴史がありますが、しかしこれは、個人の欲望や本性が「飼いならされる」必要のある異物として自覚される限りにおいて有効なのです。 


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 与えられたものから切り離される/切り離すというのは、痛みを伴う体験ですし、フロイトが「寄る辺なさ」と呼んだような、原初的な不安につながりうるようなものです。ですから人はーー特に現代の多くの人はーーそういった痛みを避ける事に全力を注ぎます。つまり、ある意味すずさん的なあり方にとどまろうとします。しかしそれは個人の尊厳をオミットすることで成り立つようなものであり、個としての存在は、必ず軋みをあげるのです。  


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    奪われた私をどのように作っていくかーーこれはmobilityの獲得にも関わりますが、極めて現代的な問題であるだろうと思いますし、青年と呼ばれる年代の人たちと比較的多く接することがある私は、この自覚できない困難を多くの若い人が持っているのではないかと危機感を覚えています。そしてそれはまた、私自身の課題でもあるだろうと自覚もしています。


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  以上のような問題意識があって、本を書きました。

 

www.sogensha.co.jp


 読んでいただくと分かりますが、直接的にこの問題を取り上げてはいません。ですから、上に述べたようなことを期待しながら読むと、がっかりするようなこともあるかもしれません。しかし、心には常にこれを置きながら書きましたから(特に8章以降は、明確にそれを意識して書きました)、私の想定を念頭に置きつつ読んでいただけると、ぐっと読みやすく身近なものと感じられるのではないかと考えています。

  専門書ですが、ご興味があれば是非ご一読いただけると幸いです。

mobilityの獲得と「私」の自由-須賀敦子『ユルスナールの靴』について

 きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。

 

 須賀敦子の著作『ユルスナールの靴』はこのような印象的な文章から始まる。ユルスナールとはベルギー系フランス人の作家、マルグリット・ユルスナールのこと。旧家の生まれであったユルスナールの父は、娘を連れて各地を放浪し、その流浪の精神を遺産としてユルスナールに残した。

www.kawade.co.jp

 

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 ユルスナールの流浪という本性を、須賀敦子はその靴(の写真)に見た。それは、「横でボタンでとめる、いわばちっちゃい子ふうの靴」だが「はきごごちは抜群にちがいない。革がやわらかそうだし、足にぴったりあっているのが、写真でもわかる」ようなものだ。

 靴をめぐる須賀自身の記憶の断片からこの本は始まるが、彼女も生涯流浪の人であったから、自らの靴にまつわる記憶をたどることは、畢竟、ユルスナールの足跡をたどる旅の記録へとつながる。例えば、ユルスナールが何度も思索の中で渉猟した過去の偉人、ハドリアヌス帝の墓廟へ行く話。目の前にそれが見えているのにあれこれと妨害が入り、何度めかの試みでようやくその地を踏む。このもどかしさはまるで、夢の中の出来事のようである。このようにして、ユルスナールの空気が満ちたどこかへたどり着きたくてもたどり着けない須賀敦子と、たどり着くべき場所を探して世界を旅したユルスナールの姿とが交互に描かれる。


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 自分で歩き回れるようになることとは、移動の自由=mobilityを得ることである。一人で歩けるためには、身体的な能力の向上だけではなく、一人でいて孤独に耐えられるような心の発展も実は必要である。歩けるようになった子どもは面白いからどこまででも歩いていくけれど、ふと一人でいることの、まるで崖っぷちにいるような怖さに気がついて、急いで大人のそばに戻ってきて手をつなぐ。そうやって少しずつ、行きつ戻りつして、とうとうどこへでも一人で歩いていけるようになるーー児童精神科医である Winnicott が描いたのは、そのような子どもの心の世界である。靴とは、そのようにして自分のものとなったmobilityの象徴だ。


 靴は履けば履くほど自分のものとなる。この世の空気や地面は、自分より前に生まれ生きたものたちが残したものの集積である。その地面と自分の足とを分かって、空気の中を風を切って歩く。そんな力強くも心細くもあるような、自分というものを守ってくれ、自分の輪郭を形作るものとしての靴。その上で、自分と地面が接することを可能にしてくれるものとしての靴。合わなければ靴ずれという形でこちらに牙を剥き傷つけてくるから、履いていることを忘れるようなフィットした靴を持つことは、mobilityが自分の本性そのものとなることを意味する。靴をあつらえることは自分で自分にmobilityを授けることであり、どこへ行っても自分は自分であることを支えるものなのだと思う。 


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 この本の最後の文はこう。

 もうすこし老いて、いよいよ足が弱ったら、いったいどんな靴をはけばよいのだろう。(中略)その年令になってもまだ、靴をあつらえるだけの仕事ができるようだったら、私も、ユルスナールみたいに横でぱちんととめる、小学生みたいな、やわらかい革の靴をはきたい。

 この直後に、須賀敦子はこの世からいなくなってしまった。