心理臨床オフィスポーポのブログ

大阪・上本町のカウンセリング専門機関です。

私は共同体にどのように接続されるのか--『この世界の片隅に』について

この世界の片隅に』という映画があります。大ヒットロングランでしたし、テレビでも放映されましたので、ご存知の方が多いと思います。

konosekai.jp

  この映画は、いわゆる反戦メッセージを含んだものとして、また“そのわりに説教くさくない”ものとして語られることが多いように思います。戦時下にありながら主人公すずさんが日常を楽しむ様子を微笑ましく描写しているところに、戦争を扱った映画としては新鮮なものを感じた人が多かったようです。もちろん、それは間違ってはいないのでしょうが、私は別のものをこの映画に見ました。すずさんの“ほんわか”さではなく、“ほんわか”したものの怖さを描いているーーそのためにすずさんを敢えて“ほんわか”したものとして描いているーー作品だと思いました。それは、個人がいかにして個人となり、それがいかにして社会や共同体といったものと(再)接続されうるものか、という話に関わります。

 

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   我々はすでにある世界に生まれてきて育ちます。すずさんは、天賦の描く才能・描きたい本能を持ちますが、その才能と本能は、結婚して郷里を離れてもそのまま維持され続けます。というよりも、この結婚そのものが、与えられたものを与えられたと考えることもなく生きていくというすずさんのあり方をよく示しています。結婚というのはある種のイニシエーションとなりうるような出来事ですが、すずさんの場合はそうではありません。そしてこの“与えられるがままに”というのがすずさんの“ほんわか”の本質であり、話題となった炊事のシーンなども、こういった生き方を描いたものと言えます。

   しかしこの与えられた才能は強大な力によって奪われてようやく、それはどこかから与えられたものであると同時に、自らが主体となって行使するようなものであったと気がつくのです。気がついたときにはもう描けない状態になっていますし、それはそれまで自分が帰属していた世界からの分離と自らのコントロールの喪失を意味しますから、とてつもない混乱と恐怖と不安となって押し寄せるのです。


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 また、子を持つというのも、結婚と同様に、与えられるものから与えるものへとイニシエートされるような体験となりえますが、すずさんの場合はそれがかないません(こうの史代の原作と、場面を足して公開された映画『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』には、明確にそのような描写がなされています)。

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 すずさんが焼け跡の孤児を育てようと決意するのは、描くことよりもさらに運命の支配が強い“子を持つ”ということについて、自分からコミットしていくことによって、世界や共同体と(再度)接続されようとするすずさんの覚悟を描いたのだと私は見ました。そしてそれが、私の心を強く打ちました。風に飛ばされることしかできないたんぽぽから、風に乗ることも逆らうこともできる鳥へと、自分を託す対象が変わるのは、こういったすずさんの存在様式の転換をうまく表現しているように思います。


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   集団の秩序を維持するためにはそれとぶつかる個人の欲望は飼いならす必要があり、「飼いならす」ためには自分というものを知る必要があります。また、ある程度は自分を変形させて周囲になじませる必要がある一方で、自分が不当に痛めつけられるような場合には、異議申し立てを行って、周囲を変形させる、または別のコミュニティに移るなどして自分とコミュニティを切り離しながら接続させるような行為が必要になります。こうして所与のコミュニティから自分を切り離すことが個人の存在を生み、それは周囲の共同体とのつながりがあってこそ、その存在が保証されるようなものなのです。人間の文明はこうして発展してきた歴史がありますが、しかしこれは、個人の欲望や本性が「飼いならされる」必要のある異物として自覚される限りにおいて有効なのです。 


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 与えられたものから切り離される/切り離すというのは、痛みを伴う体験ですし、フロイトが「寄る辺なさ」と呼んだような、原初的な不安につながりうるようなものです。ですから人はーー特に現代の多くの人はーーそういった痛みを避ける事に全力を注ぎます。つまり、ある意味すずさん的なあり方にとどまろうとします。しかしそれは個人の尊厳をオミットすることで成り立つようなものであり、個としての存在は、必ず軋みをあげるのです。  


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    奪われた私をどのように作っていくかーーこれはmobilityの獲得にも関わりますが、極めて現代的な問題であるだろうと思いますし、青年と呼ばれる年代の人たちと比較的多く接することがある私は、この自覚できない困難を多くの若い人が持っているのではないかと危機感を覚えています。そしてそれはまた、私自身の課題でもあるだろうと自覚もしています。


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  以上のような問題意識があって、本を書きました。

 

www.sogensha.co.jp


 読んでいただくと分かりますが、直接的にこの問題を取り上げてはいません。ですから、上に述べたようなことを期待しながら読むと、がっかりするようなこともあるかもしれません。しかし、心には常にこれを置きながら書きましたから(特に8章以降は、明確にそれを意識して書きました)、私の想定を念頭に置きつつ読んでいただけると、ぐっと読みやすく身近なものと感じられるのではないかと考えています。

  専門書ですが、ご興味があれば是非ご一読いただけると幸いです。