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心は分裂しスウィングする――木ノ下歌舞伎『勧進帳』

 

 先日、京都芸術劇場・春秋座で木ノ下歌舞伎『勧進帳』を観てきました。

木ノ下歌舞伎 official website – 京都を拠点に活動する木ノ下歌舞伎のウェブサイト

 

お芝居というか舞台芸術全般に疎いので、楽しめるかどうかと心配しましたが、なんのなんの、とても心動かされる貴重な体験となりました。


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 『勧進帳』は歌舞伎の演目として有名ですが、今回観たのは、木ノ下歌舞伎主宰の木ノ下裕一が補綴をし、杉原邦生が演出をし、新たな物語として再構築したもの。


 義経は、兄・頼朝から謀反を疑われ、奥州へと逃げようとする。家来である弁慶始め4名は山伏に、義経は山伏の荷物持ちである強力(ごうりき)に変装して安宅の関の突破を試みる。そこで待ち受けるのが、関守である富樫以下4名の従者である。

 富樫らは、義経らが山伏に変装しているとの情報を得て、山伏という山伏を殺すという単純な方法で義経らの関越えを防ごうとしている。ところがいざやってきた義経は強力の姿をしているためにすぐに義経であるとは見抜かれない。また、山伏になった弁慶が勧進帳を暗唱し、あらゆる質問に答えられるもんだから、富樫の判断が揺れ動き、結局、義経らを通してやるのである。


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 ここでの富樫は、社会的に与えられた役割として関守をやっている。頼朝への忠誠心というよりも、関守を任されているという事実自体にプライドを持ち、それが存在の根拠であると思い込もうとしている感じ。冷たそうでもあるんだが、なにせつまらなそうな人として演出されている。

 一方の弁慶は、義経への忠義心ももちろんありそうだが、それよりも山伏を演じることへのエネルギーに満ち、演じて騙すことに遊びとしての楽しさを見つけてしまった人のように見えた。強力に扮した義経が富樫によって疑われたので、あくまで強力であると示すために義経を打ち据えて見せる場面があり、その後弁慶は申し訳ないことをしたと反省するのだが、これも、目上の人物である義経に無礼を働いたということよりも、演技にのめり込んで我を忘れたことへの申し訳無さであると理解するほうが自然だと思う演出であった。


 要は、「あるあるこういうこと」「いるいるこういう人」と今の人も感じやすいところを取り出して描いて見せているのだと思う。私個人の、物知らぬ者の偏見として、歌舞伎や浄瑠璃といった近世の芸術は、忠義のために人が(特に子どもが)可哀想な目に遭うというイメージが拭いがたくあり、それゆえに触れがたいものを感じていたのだが、そういった思い込みを吹っ飛ばしてくれる現代的な解釈がとてもよかった。


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 そして今回、印象的だったのが、舞台装置と配役。

 関所そのものは舞台装置として設置されておらず、弁慶ら・富樫らが向いている方向で、どこに関があり、それを誰がどちらに越えようとしているのかが分かる仕組み。面白いのは義経・弁慶の従者4人、富樫の従者4人で、同じ4名の役者が演じ、右に左に移動することでどちらの従者であるのかが示される。ところが与えられているキャラ(熱血・心配性など)は不変であり、誰に従っているとかどこに仕えているとか、そういった表面的なことには関わらない、人間としての本性があるということがわかる。その一方で、この4人が左右に振れることで、4人の存在がぶつかり合い、その振動が弁慶や富樫に伝わって、二人の心も揺るがされ混ぜ合わされる。あんなにつまんなそうだった富樫が、あんなに生き生きとするなんて。


 舞台ではそれぞれの登場人物として分け持たれる形で可視化されていたのだけれど、よく考えると、ひと一人の心のなかに、忠義も欲望も悲しみも不安も恐怖も喜びもあって、そういったものは、それぞれがその時々に前景に出たり後景に退いたりしながら、いつも常に揺れ動いている。それが生きた心であり、人が生きるということでもあると思う。


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勧進帳_人物相関図
 木ノ下裕一自身が書いたこの人物相関図が大好きで、観に行く前も、観たあとも、何度も眺めた。

(木ノ下歌舞伎HPより引用)


 人とのつながり、生まれ育ったところ、社会的に与えられた使命、恐怖や喜びといった(自分の)感情ーーそういったものが、善悪・敵味方・内と外などを分ける安宅の関を挟んで、右に左に揺れ動く。それは揺らぐからこそ、変化の可能性がそこにあるのだ。そういったことがよくわかる図であり、芝居であったと思う。


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 私が観た回は、木ノ下裕一と杉原邦生のアフタートークがあり、ここで初めて、演者の体調不良等の際に代演をするスウィング俳優という存在があることを知った。スウィング俳優は公演に同行するのだが、有事のための存在なので多くの場合は控えで終わる。ところが9月の東京公演では、スウィング俳優が出演すると予め決められた回も設定されたのだという。『勧進帳』は木ノ下歌舞伎では何度も同じ配役で上演されてきた演目ゆえ解釈や演技が固定していたところに、スウィング俳優の視点が入ることで、新たな舞台を造形することができたということであった。これもまた、“スウィング”の可能性をよく示すエピソードである。