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二重らせんの果てなきダンスーー映画『イニシェリン島の精霊』について(ネタバレあり)

 映画『イニシェリン島の精霊』を見ました。まだまだ上映中の地域も多い映画ですから、これから見ようと思っておられる方々、以下、ネタバレ注意です。

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 映画の舞台であるイニシェリン島は、アイルランドにあるとされています。ここでは、動物の世話をし、14時になったらパブに行ってビールを飲んで同じ仲間と会って喋って家に帰って寝る、という毎日が繰り返されています。いわば、円環のように時間が回る世界です。これは中世的な時間の感覚で(阿部、1987)、現代では"子どものような”と言われるような時間認識です(子どもは昨日・今日・明日という概念やカレンダー的なスケジュール感を持っていないことが多い)。

 ところが、この円環を切断するような事件が起きます。主人公・パードリックの14時の友であるコルムが、「パブに行かない」「二度と自分に話しかけるな」と告げてくるのです。何が起こったのかわからないパードリックは、それでも14時にコルムを迎えに行き、「どうしてなのだ」と執拗に話しかけます。これに対してコルムは「これ以上話しかけるな。これ以上かまうなら自分の指を切断する」と言うのです。

 どうしてコルムはこのようなことを言い出したのか。音楽を愛するコルムは「人生の残りの時間を音楽のために使いたい」。つまり、時間というものは円環に循環するだけでなく、線状に流れる――終わり(と始まり)がある――ということに気がついてしまったのです。昨日も今日も区別のない世界から、昨日と今日は違う、なんだったら昨日よりも今日は前進していなくてはならない、という世界に入り込んでしまったのです。

 この"昨日よりも今日は前進"という理念に取り憑かれてしまったコルムは、パードリックの止まない干渉に、自分の指を切断し、パードリックの家に投げつけることまでします。コルムはフィドルを愛し、そのために残りの人生を捧げようとしているというのに。自分の理念(理想)を徹底しようとした結果、指を切断するという行為(performance)が呼び起こされるのです。ところが、この指を切断するという行為が、パードリックの円環への執着を促進し、コルムを執拗にパブに誘うという行動を呼びます。これによって更にコルムは指を切らざるを得なくなり、パードリックはコルムの理念の妨害に執念を燃やし…最後には、"14時”にパードリックはコルムの家に火を着けることになります。前進を求めたコルムの14時は"パードリックを避ける”ことの繰り返しであったのに対し、毎日同じ14時に執着したパードリックの14時は、「今日と違って明日は14時に火を着ける」という理念(理想)のもと、「昨日は着けなかった火を今日は着けた」と変化をしたのです。 

 

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 線的な時間に目覚めたとは言え、コルムが切断するのはあくまで自分の指です。パードリックの妹のように島外に出るわけでもなく、パードリックに危害を加えたり「お前も目覚めよ」と変化を求めるわけではないのです。また、理念(理想)は未来のこととして常に未遂(未完)であることが必要なのであるのに対し、行為(performance)は常に今ここで現在進行系で遂行されていくものです。つまり、理念と行為は対照的な性質を持っています。上に見たように、コルムは理念(理想)を持つこととなりました。その徹底が自らの"切断”という行為に繋がります。反対に、パードリックは徹底して”行為”の人で、常に今を生きているし常に動いているのだけれど、コルムの”理念”に裏打ちされた”行為”を向けられることでついに”理念”を持つことになります。また、コルムの指の”切断”が、パードリックの”結合”への執着を生むことや、指の”切断”は理念への”結合”を求めてのことである点も、面白いところだと思います。つまり、理念と行為、切断と結合は、対立的・対照的な事象ではあるけれどもそれだけではなく、互いが互いを支え合っているような相補的な関係にあるともいえます。

 このように、パードリックとコルムの体を借りながら、”理念”と”行為”、”切断”と”結合”が入れ代わり立ち代わりダンスする――まるでDNAの二重らせんが複製され合成されていくように。らせんとは、円環と線を合わせたようなものですから、二人の時間の流れの止揚をそこに見ることができるかもしれない。そんなイメージの膨らむ映画でありました。

 

<参考文献>

阿部謹也(1987)中世賤民の宇宙―ヨーロッパ原点への旅.筑摩書房