心理臨床オフィスポーポのブログ

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<私>として生きることの煩悶――カール・テオドア・ドライヤー『裁かるゝジャンヌ』について

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 少し前のことですが、テアトル梅田のカール・テオドア・ドライヤーセレクションを見に行きました。

www.zaziefilms.com

 カール・テオドア・ドライヤーはデンマークの映画監督で、20世紀初頭から中後期にかけて活動した人。つまり、無声映画からトーキーへと、谷を越えるように映画制作をした人です。

 今回の特集では、『裁かるゝジャンヌ』『怒りの日』『奇跡』『ゲアトルーズ』の4本が上映され、4本とも見ることができました。いずれも強いインパクトを残す作品でしたが、もっとも印象に残ったのは『裁かるゝジャンヌ』でした。


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 『裁かるゝジャンヌ』は、ジャンヌ・ダルクの生涯でも、異端審問にあってから火刑に処されるまでのジャンヌの心の動きを克明に映し込んだサイレント映画(今回の上映ではカロル・モサコフスキによるパイプオルガンの伴奏あり)です。

 映画の技法としては、ノーメイクでジャンヌ役のルネ・ファルコネッティの顔のアップを取り、その変化で心情を描出している画期的な演出法が取られています。このことと、ジャンヌの裁判記録から取られた中間字幕とによって、生と死、人間と神、断罪と赦しの間を揺れ動く、一つの生命としてのジャンヌの軌跡を描き出したものだと言えます。


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 よく知られているように、ジャンヌは、フランスでは聖女と賛美され、イギリスが先導する異端審問では悪魔の名を着せられました。この映画では、聖女や悪魔とは周囲の人がそのように呼ぶものであって、彼女は自分の必然性に突き動かされてただ一人の人間として生きていたのだということが、誰も見向きもしない藁の王冠と彼女の関係によって表現されます。彼女の信仰とは、共同体に強いられるものではなく、<私>が<私>のためにするものであった。審問官も民衆も、それが認められないから、一人の同じ人間を「聖女」としたり「悪魔」としたりするのです。しかし実際には彼女はそのどちらでもなく、<私>の内側から湧き上がる何かを守りながら生きたい人であったのです。

 “火あぶり”となっている以上、この結末をただ美しいと単純に称えることはできません。しかし、人間が、他ならぬ<私>でありつづけるということがいかに苦しく、いかに魅惑的なものであるのかということを、私はこの映画によって心に刻むこととなりました。


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 そして実は、煩悶するジャンヌのクロース・アップを見ながら、私の心にはポーポのアイコンとしているキンシバイのイメージがずっと浮かんでいました。

 この写真は、道端に見つけて直感的に撮ったものです。水に濡れ、枯れた花もついていますが、私自身がどうしてこの花に惹かれたのか、私自身が心理療法において何をしようとしているのか、少しわかったような気がする映画体験でした。