心理臨床オフィスポーポのブログ

大阪・上本町のカウンセリング専門機関です。

mobilityの獲得と「私」の自由-須賀敦子『ユルスナールの靴』について

 きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。

 

 須賀敦子の著作『ユルスナールの靴』はこのような印象的な文章から始まる。ユルスナールとはベルギー系フランス人の作家、マルグリット・ユルスナールのこと。旧家の生まれであったユルスナールの父は、娘を連れて各地を放浪し、その流浪の精神を遺産としてユルスナールに残した。

www.kawade.co.jp

 

***

 

 ユルスナールの流浪という本性を、須賀敦子はその靴(の写真)に見た。それは、「横でボタンでとめる、いわばちっちゃい子ふうの靴」だが「はきごごちは抜群にちがいない。革がやわらかそうだし、足にぴったりあっているのが、写真でもわかる」ようなものだ。

 靴をめぐる須賀自身の記憶の断片からこの本は始まるが、彼女も生涯流浪の人であったから、自らの靴にまつわる記憶をたどることは、畢竟、ユルスナールの足跡をたどる旅の記録へとつながる。例えば、ユルスナールが何度も思索の中で渉猟した過去の偉人、ハドリアヌス帝の墓廟へ行く話。目の前にそれが見えているのにあれこれと妨害が入り、何度めかの試みでようやくその地を踏む。このもどかしさはまるで、夢の中の出来事のようである。このようにして、ユルスナールの空気が満ちたどこかへたどり着きたくてもたどり着けない須賀敦子と、たどり着くべき場所を探して世界を旅したユルスナールの姿とが交互に描かれる。


***

 untitled image

 自分で歩き回れるようになることとは、移動の自由=mobilityを得ることである。一人で歩けるためには、身体的な能力の向上だけではなく、一人でいて孤独に耐えられるような心の発展も実は必要である。歩けるようになった子どもは面白いからどこまででも歩いていくけれど、ふと一人でいることの、まるで崖っぷちにいるような怖さに気がついて、急いで大人のそばに戻ってきて手をつなぐ。そうやって少しずつ、行きつ戻りつして、とうとうどこへでも一人で歩いていけるようになるーー児童精神科医である Winnicott が描いたのは、そのような子どもの心の世界である。靴とは、そのようにして自分のものとなったmobilityの象徴だ。


 靴は履けば履くほど自分のものとなる。この世の空気や地面は、自分より前に生まれ生きたものたちが残したものの集積である。その地面と自分の足とを分かって、空気の中を風を切って歩く。そんな力強くも心細くもあるような、自分というものを守ってくれ、自分の輪郭を形作るものとしての靴。その上で、自分と地面が接することを可能にしてくれるものとしての靴。合わなければ靴ずれという形でこちらに牙を剥き傷つけてくるから、履いていることを忘れるようなフィットした靴を持つことは、mobilityが自分の本性そのものとなることを意味する。靴をあつらえることは自分で自分にmobilityを授けることであり、どこへ行っても自分は自分であることを支えるものなのだと思う。 


***


 この本の最後の文はこう。

 もうすこし老いて、いよいよ足が弱ったら、いったいどんな靴をはけばよいのだろう。(中略)その年令になってもまだ、靴をあつらえるだけの仕事ができるようだったら、私も、ユルスナールみたいに横でぱちんととめる、小学生みたいな、やわらかい革の靴をはきたい。

 この直後に、須賀敦子はこの世からいなくなってしまった。