心理臨床オフィスポーポのブログ

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生きることの虚しさと輝き--『mid90s』の繋がれないつながり

 

 見たいと思いながら見逃していた映画『mid90s』を鑑賞しました。俳優のジョナ・ヒルが監督を務めた映画で、スケーター映画として、また90年代のファッションや音楽へのノスタルジーをまとった作品として宣伝されていたものです。

 

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 私は90年代に中高生時代を送り、ヒップホップにも大きな影響を受けましたから、まさに“あの頃”が蘇るようなモチーフの数々に、懐かしさや切なさを感じながら見ることとなりました。

 

 しかしそれ以上にこの映画は、思春期のどうにもならなさを描いた映画として、普遍的な美しさを持つものであると思いました。

 

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 どこかに何かをぶつけたくて吐き出したくて爆発しそうなあの感じ、みんなが羨ましくて、それでも自分のほうがすごいと思いたくて人を傷つけて、でもみんな痛みを抱えながら生きていることにも少しずつ気がついていて。一方で大人は手本にならないし、でも抑制だけは求めてきて、だから一緒にいるときには、ここではないどこかに逃げることばかり考える……そんな感覚が見事に描き出されています。

 

 本作の主人公はスティーヴィーという少年ですが、家族に父はおらず母は早くに子を持ったことを後悔し、兄は日々の鬱屈をスティーヴィーにぶつける。そんなわけで家に彼の居所はなく、近所のスケーター集団の中に親密な体験を求めていきます。この集団は、スケートによってリンクしてはいますが、みな人種も家庭環境も異なっていて、集まっていればいるほど自分の孤独が帰って浮き彫りになるような、そんな関係です。騒いでいても、虚しい。

 

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 臨床心理学の観点から見た成人となることの現代的困難について、河合隼雄『大人になることのむずかしさ』という本を物しています。ここでは、皆が共有できるような成人としての像がないこと、自分なりに見つけた理想を追っても、追いつく頃にはその理想は理想としての価値をすでに失っていることなど現代社会の特徴を押さえた上で、そういった中での青少年の自己を切り出し確立するための試行錯誤が、“問題行動”の様相を帯びることの必然性が論じられています。

 

 そういった点からも、この映画にはいくつかの(いくつもの)鮮烈な印象を残す場面がありますが、たとえばスティーヴィーが跳躍するあの場面は、通過儀礼・イニシエーションとしてのバンジージャンプを思わせます。また、血の繋がりがあってもなくても、それぞれ別の人格を持って生きていくし、そうしなくてはならないし、それでいいのだ、ということに関わって、入院中の主人公に兄が差し出す飲み物の描写が見事です。

 

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 終盤のあっけなさと突然の解放という点では『桐島、部活やめるってよ』(吉田大八監督)を、思春期の暴力性や死との接近という意味では『岸和田少年愚連隊 血煙純情篇』(三池崇史監督)を、そしてそういう日々は続くよどこまでも、というところでは『アナザーラウンド』(トマス・ヴィンターベア監督)などを連想させました。こうして我々は生きていくのです。