心理臨床オフィスポーポのブログ

大阪・上本町のカウンセリング専門機関です。

「人の心などわかるはずがない」

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 思うところあって、河合隼雄『こころの処方箋』(新潮文庫)を読み返していました。

www.shinchosha.co.jp

 

 河合隼雄と言えば日本における臨床心理学の泰斗、臨床実践や大学での指導の一方、旺盛な執筆活動や講演を行って、本邦にカウンセリング(心理療法)を根付かせた立役者の一人と言えます。

 この『こころの処方箋』は、トーハンの『新刊ニュース』(2021年3月で休刊となったようです)に1988年から1991年まで連載されたものに書き下ろしが加わり、55の文章がまとめられたものです。

    生きる上で多くの人が悩むであろうテーマ――子育てや婚姻、仕事や病など――について、臨床心理学を基礎に置くとどのように見ることができるのか、ということが平易な文章で書かれていて、手に取った人が自分に関係しそうなところを拾い読みできるような作りになっています。とてもよく売れ(私の手元にあるものは平成22年の32刷)、多くの人にカウンセリング(心理療法)や臨床心理学が知られるきっかけとなった本の一つです。河合隼雄と言えばこの本を思い浮かべる人も多いでしょう。また近年は、入試問題に頻出だという理由で読んだ(読まされた?)方もたくさんおられるかもしれません。


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 「人の心などわかるはずがない」は、


“ (臨床心理学を専門にしていると)一般の人は人の心がすぐわかると思っておられるが、人の心がいかにわからないかということを、確信をもって(原文傍点)知っているところが、専門家の特徴である、などと言ったりする。”


と始まり、

 

“ (「専門家」に期待されることは)原因を明らかにして、どうすればよいかという対策を考え出すということである。ところが、本当の専門家はそんなことをしないのである。”


と言います。


“ (一番大切なことは)すぐに判断したり、分析したりするのではなく、それがこれからどうなるのだろう、と未来の可能性の方に注目して会い続けることなのである。

 速断せずに期待しながら見ていることによって、今までわからなかった可能性が明らかになり、人間が変化してゆくことは素晴らしいことである。しかし、これは随分と心のエネルギーのいることで、簡単にできることではない。”

“ (原因や解決法を決めてしまうと)自分の責任が軽くなってしまって、誰かを非難するだけで、ものごとが片づいたような錯覚を起こしてしまう。こんなことのために「心理学」が使われてばかり居ると、まったくたまったものではない。”


そして、


“ 現状を分析し、原因を究明して、その対策としてそれが出てくるのではなく、むしろ、未知の可能性の方に注目し、そこから生じてくるものを尊重しているうちに、おのずから処方箋も生まれてくるのである。”


と続いて終わるのです。

 2021年のことを河合隼雄がどれだけ想像できていたかはわかりませんが、2021年現在、これほどぞんざいに扱われている考え方も、これほど人と関わる仕事に就く人が確信している考え方もないだろうと思います。


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 そして本書の21章目では「ものごとは努力によって解決しない」と来て、最終章55章は「すべての人が創造性を持っている」と終わります。河合の論理が面白いのは、“だから努力などせず生きましょう”とも、“他の人の真似できない唯一無二の人生を生きましょう”とも言わないところです。河合の考える「解決」や「創造性」とは、一般に受け止められているようなものとは質的に異なっているということです。


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 全体を通して、“私(河合自身)はこうやっています” “こう思っています” ということを伝えることによって、それを受け取った人が、 “では自分はどうするか” を考える仕組みになっています。 これは決して突き放すということではなく、“ ですからご一緒にやりましょう” ということなのです。自分の人生を生きるとはどういうことか。他人に心が分かられてしまい、他人に生き方を決められるのならば、それは自分の人生を生きられていないこととイコールです。 これが河合の言う「創造性」を十分に発揮できていないということなのです。

 さらにすでに述べたように、ここでの「創造性」とは、よく言われるような “ 他の人とは異なるものを生み出す” ということとも違うのです。そうではなくて、河合はあくまでも、世間一般の価値観に関わらず、“ 「私が生きた」と言えるような人生を生きられるかどうか” に目を向けるのです。こういう意味での「創造性」を発揮することは、苦しくて長い道のりになることも多いものです。しかし、昨今生じている諸問題に傷ついた人(私もその一人かもしれません)には、こうやって他者と対話しながら一緒に、自分の人生を生きることができるのだということをどうしても伝えたく、拙文を書きました。またこれは、夢分析に関する私の考え方ともつながっています。

www.po-po.org


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 ちなみにここで取り上げた「人の心などわかるはずがない」という文章は、5月に刊行されたSTANDARD BOOKS『河合隼雄 物語とたましい』(平凡社) にも収録されていますが、初っ端からガツンと先入観をぶっつぶされる強烈な体験ができるという点では、個人的には、まずは『こころの処方箋』で読む方が面白いことになるように思います。

www.heibonsha.co.jp

    とはいえ、『物語とたましい』の方は、これはこれで、よかった。各所に発表された河合隼雄の文章を編み直したものなのですが、『こころの処方箋』には載っていない文章と組み合わされることによって、「人の心などわかるはずがない」という文章にも異なる文脈が与えられていますし、装丁もまた夢見る気持ちがしてよかったので、実際に本を手に取って掌に収めてみるのがおすすめです。

 

夢分析について

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 当オフィスでお引き受けできることの一つとして、「夢分析」というものを挙げています。ここでいう「夢」とは、寝ている間に見る、あの「夢」のことです。

 心理療法において夢を取り扱うということについては、馴染みがある方とそうでない方がおられるのではないかと思います。


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 古来から夢は心を癒やすものとして捉えられ、古代ギリシャでは病者が神殿に籠もって眠り、治療的な夢の到来を待ったといいます。日本でも、聖徳太子の夢殿参籠や、「今昔物語」に伝わる長谷寺のわらしべ長者の話などがあり、現実的な生活と夢との距離がそう遠くはなかったことが伺えます。


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 近代的な心理療法に夢を取り入れたのはフロイトです。フロイトの名前は、心理療法や臨床心理学、精神医学などについて学ぶと必ず触れることになります。

   フロイトは現在行われている心理療法の祖としていくつもの業績を残していますが、心理療法という枠組を越えて、多くのフィールドで人間を捉えるためのフレームワークを変えるほどの影響を与えたのは、「無意識」の存在を理論化したことでしょう。


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   多くの場合、人間は、ああしようこうしようと意識的に意図して行動を起こします。また、何気なくやった行動も、理由を聞かれれば答えられることがほとんどです。基本的には、やりたいこと・やらなくてはならないことをやるし、やってはいけない(と思っている)ことはやらないようにする。それが成熟した人間の行動原理であると、一般的には考えられています。

   ところが人間は、“うっかり”思ってもいないことをすることがあります。楽しみにしていたお出かけに、集合時間を勘違いしていて遅刻する。大事なメールの宛先を間違えて交渉が潰れてしまう。事の大小はさまざまでしょうが、身に覚えのある人も多い現象だと思います。

   なぜこういうことが起きるのか。これを説明しようとしたのがフロイトであり、そのために持ち出された心の装置が、「無意識」なのです。


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   友人とのお出かけはとても楽しみだし、メールのやり取りを重ねてプロジェクトを成功させたい。意識の上ではこう思っているわけですが、実は心の深いところでは別のことを望んでいる。例えば、“プロジェクトが成功すれば忙しくなるし昇進してしまうし責任が重くなる。そうやって事が進んでいく準備が自分にはない…。でもこんなこと人に言えないし、毎日の仕事はそれでもやってくるから立ち止まることもできない”。そこで心と生活を守るために、「ストップをかけたい」気持ちを心の奥底に、自分でも気づかないうちに押し込めてしまうのです。

    このような、形になる前の願望や欲望や体験世界が貯まっているのが「無意識」という心の領域だとされていて、そこに押し込められた欲望が、意図せぬ形で顔を出すのが“うっかりミス” だというのが、フロイトの説明です。心理的な症状も、“電車に安心して乗りたいのに乗ると不安が襲ってくるから乗ることができない”というように、「望んでいることができない」「望んでいることと違うようにしか動けない」ということが根っこにはあるので、“うっかりミス”と同様の機序があるのではないか、と考えるのです。


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    自分の意図しないことが自分の身に起こる。その源は自分の中にある。要は、自分の中に、自分でもよく分からないものが蠢いているというわけで、これはとても不気味なことです。人間が生きるということにまるでエアポケットのように含まれている、不条理やねじれといったものであるとも言えますが、そういったものに安全にゆっくりと触れていくために用いられるのが夢分析です。


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 夢というのは、見たいと思っても見られず、別に見たいと思ってもいないのに勝手に見させられるものです。内容も、「なんで?どういうこと?」というものがあちらから勝手にやってきますよね。これはまるで心理的な症状や生きる上での困難のようです。

    ですが、夢そのものは他の人とは決して共有できず、それは紛れもなくその人だけのものです。つまり外からやってくるようで、その人の内側から湧き上がっているものでもあるのです。つまり、「無意識」(の内容物)がそこで体験されているとも考えられるのです。

(このような夢の特徴については、河合隼雄が名著『イメージの心理学』(青土社)の中で「イメージの自律性」として論じていますので、ご興味のある方は是非!読んでみてください。)

    夢を記録してそれについて人と話をするというのは、バカバカしいことのように見えるかもしれません。しかし人に話して聞かせたくなるような、鮮烈な夢見体験をしたことのある人も多いだろうと思います( だからこそ、「他人の夢の話ほどつまらんものはない」というあるあるネタができるわけです)。 夢に触れるというのは、自分を強烈に動かしながらも正体の見えないものについて、それにやられっぱなしにならないための、すくい上げるべきものはすくい上げ、放っておいてもいいものは放っておけばいいのだと確実に実感するための、生きる上での大切な試みなのです。自分のことは自分でも分からない部分があると実感し、それに安住できることが大事なのです。


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   このような考えから、当オフィスでは、見た夢を記録してそれを持ってきていただく夢分析を行っています。時間がかかることもありますが、着実に効果ーー何を「効果」と呼ぶのかという難題もありますがーーを上げられる手法でもあります。

    と言いましても、状況によっては、来談されたタイミングでそれを行うことがよいとも限りませんから、まずはお話を伺って、導入するかどうかの判断をしています。ご希望があれば申し出ていただければと思いますが、その場合も、ご一緒に相談して、どう進めるかを決めることを大切にしています。


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「人に言えない 夢を見た」

これは伊集院光のラジオ番組「伊集院光とらじおと」の1コーナー、「伊集院光とらじおと自由律俳句」(8/14放送分)で紹介されていたものです。このコーナーは、リスナーがいわゆる自由律俳句を投稿するものですが、冒頭の作品は「そう、そう!」と思い、思わずメモを取りました。これもまた、夢のひとつの境地ですね。


(「伊集院光とらじおと」は他にも面白いコーナーが多いのですが、残念ながら関西では放送されていません。聴取には有料サービス・ラジコプレミアムへの加入が必要です。)

魂を打ち震わせるような表現―映画『寛解の連続』について

これがあったから死の淵からなんとか引き返してこられたと思うような、魂を打ち震わせるような表現に出くわすことがある。これはもちろん万人に共通するものではなく、いつ何と出会うか、それによって自分に何が起こるかは無数の組み合わせがあり、誰にも予想もできない(だからこそそれは、心ではなく魂を揺さぶる)ようなものだ。


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映画を見に行った。光永惇監督の『寛解の連続』。

http://kankai-movie.com/ 

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 この作品は、ラッパー・小林勝行が2011年にファーストアルバム『神戸薔薇尻』をリリースした後、躁うつ病双極性障害)による入院生活を経て、2017年にセカンドアルバム『かっつん』にて復活する、その軌跡を記録したものである。映像のメインとなっているのは、セカンドアルバムの制作風景、特にリリックを研ぎ澄ます小林勝行の姿であるが、密着取材らしく、仕事、両親、信仰、地元の先輩など、彼の生活の様々な“現場”がそこに織り込まれていく。見終えてこれは、コミュニティを求めつつもどのコミュニティにも繋ぎ止められない、さまよえる魂の旅を描いた作品であると思った。 


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 個人的なことを記せば、私はファーストアルバムが出る以前、神戸薔薇尻と名乗っていた頃に彼の作品と出会った。当時はとにかくヒップホップが好きだったから、情報収集する中で知ったのだと思う。まだアルバムは出ておらず、さまざまなコンピレーションアルバムに収録されていった作品を夢中になって追いかけた。最初に聞いたのは、SEEDA & DJ ISSO『CONCRETE GREEN』に入っていた「絶対いける」か、DJ NAPEY『FIRST CALL』に入っていた「蓮の花」かどちらかだったか。もしくは、韻踏合組合が関わっているDJマッカーサー『Vol.2』の「絶対いける」だったような気もする。(「絶対いける」はこのバージョンが秀逸。)

 どの作品も、國分功一郎流に言うならば「暇」でもあり「退屈」でもあるような地方の青年の鬱屈と、その解消の試みとしての“悪事”、それでも光指す方へ伸びたいという思いが巧みに韻を踏みつつ描かれており、鬱屈の源である地元を象徴する方言もうまく昇華されていて、とにかく何度も、自分をぶつけるようにして聴いた。“悪事”こそ働いていなかったものの、何をやってもうまく行かない気がしてどんづまっていた当時の私の心にとてもマッチしたのだ。つまり私の魂は、まだ見ぬ同志に出会うことができてかろうじて息を吹き返したということになる。


 そしてこの映画を見ることによって、私の魂は再び、揺さぶられることとなった。


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 「退屈」が叙情的な美しさすら持つのだということは、神戸薔薇尻の「HERE IS HAPPINESS」という曲によって思い知らされた。大津美子の「ここに幸あり」をサンプリングしてラップされるのは、世界最長を誇る明石海峡大橋のたもとに立ち尽くしながら語り起こされる、神戸西端にいる若者の日常に関する述懐である。


  一緒 中退ハイブリーチ あいつんち ぷよぷよイージー 14インチが

  映す 不景気鉄筋屋クビ おばちゃんに決心て何? あくび

  お前のパン屋のバイト休み ちょい恥ずい 大蔵海岸裸足


フックはこう。


  一直線伸びる明石大橋 

  二本足 頑丈 棒立ち

  ホンマにあん時と同じ

  ばりでっかいし世界一

  一望 淡路景色広い

  おらん後ろにおい海の匂い

  暗なったら光り始める 腕を組む HERE IS HAPPINESS


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 あの時これらの音源と出会えていなかったらどうなっていただろうかと思う。それは、本映画の中で、「あの時引っ越していなかったら」と想像する小林勝行の姿のようである。彼が小2で伊川谷に越すことになったのは、震災によって自宅が崩壊したためであった。「20年経って、神戸今住んどう人で震災経験したん40%しかおらへん」と彼は言う。やはりこれは、自分を繋ぎ止められるコミュニティを求めてさまよう魂の旅路なのだと思う。


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 各種コンピを経て満を持してファーストアルバム『神戸薔薇尻』をリリースするが、その後、病を得て活動がストップする。こうして自分の意志とは別のなにものかによって、彼の魂は常に浮遊を余儀なくされる。


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 映画全体を通して、”小林勝行の語り、わかりにくい”ということに気がついた。なにがわかりにくいかというと、問いに対して答えているうちにいろんな話がつながっていって、何の話をしていたのかわからなくなるのだ。問いという石が投げられると心と世界に波紋ができるが、その波紋を全てすくい取って言葉にしようとするのである。それは論理的ではないが故に、日常的な会話の中ではわかりにくいものとして立ち現れてしまうけれど、とても豊かな詩的な語りだ。自分というものそのものが融解して、万物に染み渡っていくような、そんな語り。盲学校に関するエピソードは、それを象徴するものだと思う。そしてだからこそ彼には、ラップが必要なのではないかとも思った。

 これについて具体的には、少し前に出た『ヒップホップ・モンゴリア』(島村一平著)を想起した。この本には、ラッパーがシャーマンになること、モンゴルにおけるラッパーとシャーマンとの近接性について書かれていた。また、遊牧民族として口承によって文化を伝承していくモンゴルの人々にとっては、韻を踏むというのは確実に体に刻み込んで記憶するための実践的な知恵でもある。これは、韻=身体性を感じさせる縛りでもあり、リズムによる高揚感を呼び起こすものでもあって、それによって自分というものを解体し、この世ならぬものと関わりを持つことを可能にするのだという指摘であった。またここでは、自分は解体されながらも、韻踏みのオリジナリティによってあらたな“私”として再生される。

 リリックを書きながら泣き、車を運転しつつ念仏を唱える小林勝行の姿は、ある意味シャーマン的な様相を呈する。ただし彼は、シャーマンのように誰かのためにとか、何かと何かを仲介するために祈るのではない。自分のために祈るのだ。それは、向こう側にあるものと容易につながってしまえる力を持った人が、なんとかこちら側にとどまろうとする、その錨となるようなものとしての祈りに見えた。彼が迷いながらも最終的にはその作品の中ではっきりと信仰について告白をしたのも、きっとそのことに関わるのだろうと思う。確かなコミュニティなき者にとって(それはきっと今や多くの人に共通するあり方だ)、ここに確かに自分がいると実感するのはとても大変なことなんだと、あらためて身にしみた。


 また、父親について語る場面と、アルバムの共同制作者が(親切だが聞きようによっては説教とも取れる話を)語りかけている場面も印象的である。この映画を見る者にとっては、これらの人間臭い場面が癒やしというか、自分とこのラッパーとの接続点となることだと思う。北岡先輩が「知らん」とつっぱねるのもよかった。彼も我々も、道徳的に正しいことを真っ先に目指したいわけではないのだ。それ以前に、ただ生きたい。


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 かくして現在の日本を生きる私にとっては、『ノマドランド』よりも一層、迫りくるリアリティが湧き上がる作品であった。「Here is Happiness」において、希望と絶望の交差点として眺められた明石海峡大橋のその向こう側、淡路島にこれから起こるであろうことにも思いを馳せた。


可能であればもう一度見に行きたいと思う。

ハウス加賀谷さんの推薦コメントがすばらしいので、ぜひ公式サイトからご覧ください。 (リンクしているページをスクロールすると出てきます。)

 

 

参考文献:映画『寛解の連続』パンフレット

     島村一平『ヒップホップ・モンゴリア 韻がつむぐ人類学』青土社

     都築響一『ヒップホップの詩人たち』新潮社

悲しみを止める

ポーポの近くを歩いていて、思わずこの花の写真を撮りました。一年ぶりの再会です。


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このホームページの背景画像にも使っているこの花、ポーポの近所の植え込みでよく見かけます。「キンシバイ」という花で、梅雨時期から夏が花の盛りのようです。

花言葉「太陽」「きらめき」「秘密」「悲しみを止める」。


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一年前の今頃は、ポーポを開業して間もない頃でした。ちょうど開室の準備を始めた頃に緊急事態宣言が出て、家具屋さんもどこも休業して、室内の調度を整えるのにも苦労したことを思い出します。ハンドソープや消毒用のアルコールもどこも品切れ。薄暗く人が少ない街をさまよって、探し回ったのでした。


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背景画像にしている写真は、そんな開業準備中に植え込みに見つけたもの。雨に濡れた花の鮮やかさがあまりにも印象的で、思わずシャッターを切りました。

これからどうなっていくんだろう、という不安で沈んだ心に対して、「きらめき」で「悲しみを止める」。

一年ぶりにこの花に出会って、この花に私の心を救ってもらったのだという思いが蘇りました。


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別れては出会って、出会うたびに生き生きとした感情を心に吹き込んでくれる。

ポーポもこういう存在になりたいものだと思います。

 

カメラロールを眺めてみよう

今は多くの方がスマートフォンを持っています。

スマートフォンが身近になったことで私にも様々な変化が起こりましたが、写真をどんどん撮るようになったというのもその一つです。

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スマホを持っていると、歩いていて「あ」と思った時に写真が撮れ、フィルム代を気にせず何枚でも写せて、しかも勝手にクラウドにアップしてくれる。そんなわけで本当によく写真を撮るようになって、このブログに載せている写真もそういう中から選んでいるものです。


ところで、スマホの写真で面白いのは、撮った写真がずらっと並んで、指でスクロールするだけでどんどん見返せることです。みなさん自分の撮った写真を見返して気が付かれることはありますか?


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風景構成法と呼ばれる心理検査(心理テスト)があります。山や川、田んぼや家や人などを言われる順に描き込んでいって、最終的に一つの風景を作り出すというものです。手順や読み取り方の詳細はここでは語りませんが、この手法で描かれるのは、①山や川といった、いわゆる”大いなる自然”――人間の力が及ばないものと、②家のように人が自然をコントロールして作られるもの、または人間そのもの(”社会” ”世間” ”シャバ”というやつ)、③田んぼや道など自然と人間界とがつながるところに生まれるもの、の3つです。この3つの世界を行き来しながら、またそれらのバランスを取りながら人間の心は安定や成長を目指すのだということを巧みに使って、描いた人の今の心の状態を見るのです。

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みなさんのカメラロールにはどのような写真が多く撮られていますか?


一貫して植物を取り続ける人、家族や友人知人の写真が多い人。ある時期は山や鳥ばかり撮っていたけれど、急にビルの看板をたくさん撮るようになった人。


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私はといえば、このブログにもよく載せている通り、草木花の写真ばかり撮っています。あとは食べ物。どうも、根源的というか本能的な部分を動かすものに惹かれていますね。このオフィスが大阪市内にあって日頃はほとんど街中を歩いていますから、自然に触れられるのは限られた場所だけ。しかしスマホをかばんに入れていると、そうと意識しないうちに心の手が植物に向かって伸びていくようです。これが私の心の動き方の特性であると捉えてみると、例えば自分が疲れた時、苦しくなった時にどのようにすればよいのか、何によって苦しくなっているのか、理解する緒のひとつになりそうです。


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もう一度カメラロールを眺めてみましょう。一枚一枚の写真から、「これは○○に行った時で」「このとき☓☓がこんなことして」と思い出を振り返るのも楽しいものですが、何枚もの写真を流しながら見られるというカメラロールの特徴を生かして、自分の心の傾向を大きく掴んでみるのもよいものです。


何か心の動きが見えてきたでしょうか。

「これはなんだろう?」

上本町近辺の町をよく歩いています。


薄田泣菫の歌碑の写真を撮っていると、その陰から子どもが一人出てきました。首を傾げながら、写真を撮る私と歌碑とを交互に見ます。その子にとっては日常の遊び場、これが被写体として特別な対象になるということが不思議なのでしょう。

町には歴史があって、我々もそこに連なるものの一つです。

しかし、「これはなんだろう?」と立ち止まる時、そこには、歴史という普遍的な存在から切り離されて、一人の人間としてものを思う”私”の姿が浮かび上がります。


「これはなんだろう?」

 

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生きる町

心理臨床オフィスポーポの最寄り駅は、近鉄大阪上本町駅または大阪メトロ・谷町九丁目駅です。

駅の周りは商業施設や劇場(新歌舞伎座)があってとてもにぎやかですが、5分も歩くと静かな町が広がります。

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緑豊かな公園があって、

木には蜂。

神社があって、

お寺と個人商店がある。

歩けば歩くほど、細部にはまり込んでいく面白い町です。